趣味の楽しみ方の分析
人間とはつくづく孤独な生き物だと思う。
先日配信された NETFLIX ドラマ『ダーマー』では、アメリカ史上最も酸鼻をきわめた猟奇連続殺人犯であるジェフリー・ダーマーの深い心の孤独がまざまざと描かれている。
イメージとしては人間の友愛からいちばんかけ離れたシリアルキラーの彼らほど、ひとからの愛情や社会的承認に極度に飢え、考えられるかぎり最も過激な逸脱行動に出てしまうのはかなしい皮肉だ。
生まれながらであれ、作られたのであれ、猟奇殺人者とはひとと健全に繋がりあう能力を獲得できなかったがゆえに、孤独の業火にもだえ苦しむ者のひとつの姿かもしれない。
・コミュニケーションツールとして楽しむ層
・対人戦の競技ゲームを楽しむ層
・新作メジャータイトルを楽しむ層
・有名なインディータイトルや名作を楽しむ層
・特定のゲームジャンルを深掘りする層
重要なのは「プレイヤー」の軸の置き方次第ではゲームとの関係や向き合い方がまったく異なるため、おなじゲーマーといえどもそれぞれの層毎に環境の違いと見方の偏りが起きてしまうことだ。
今回はその「仮面」をより一般的な趣味の問題として捉え直してみよう。
まず、趣味というと、実利・実益を度外視して楽しむためにおこなう習慣的な行為のほかに、物事の好みやセンスという意味があるが、後者はあくまで前者と教育で培われるためこの記事ではより一般的な前者の意味で「趣味」を用いる。
趣味を考える上でまず大事なのが、いわば日常生活の息抜きとして(だいたいの場合は)機能していることだ。
趣味は仕事や家事、育児、学業などのストレスのはけ口にすぎず、生活の優先順位としてそれらより上に来ることはきわめて少ない。
そのため、意識的にせよ、無意識的にせよ、趣味を楽しむにはいかに認知上のコストを下げるかという堕落の問題が付き纏う。
趣味に没頭するにはすでに慣れ親しんだものでないといけないのだ。
前回分析した「プレイヤー」のうち最後の層(いわゆるマニア)以外は認知上のコストを切り詰めていることに気付いただろうか。
新しくプレイするゲームタイトルを決めるにあたり、コミュニケーションツールとして楽しむ層はそのコストを友人と分担したり負担させたりし、競技ゲームを楽しむ層はアクティブユーザー数が肝なためそもそも候補のタイトル自体が少なく、お気に入りの配信者に負担させている(影響を受ける)ことが多い。
新作メジャータイトルを楽しむ層はゲームメディアやSNSでの人気に依存しているのにくわえ、そもそもトレンドになるものは紋切型のデザインな場合が多い。有名なインディータイトルや名作を楽しむ層はすでに蓄積した評判や開発のブランド、動画投稿主、あるいは自身の記憶など、期待の負担先は多岐にわたる。
特定のゲームジャンルを深掘りする層はもっと能動的で、コミュニティやフォーラム、専門特化したより小規模なコンテンツクリエイターなどから数多くの情報を得て吟味する。この高負荷な探索行為を楽しむ層がマニアといえるが、それでもその好奇心の範囲は限られる。
残念ながら(?)僕らはすでに「それ」を知り、「それ」に期待していないと趣味を楽しめない。
それぞれの層で違うのは、「それ」をどのように知り、自身の期待をコントロールできているかだ。たとえば、社会的評判の高さや記憶による懐かしさはほとんどのひとには無条件に「良い」「好き」と期待させるが、マニアには吟味の素材のひとつでしかない。
要するに、趣味の楽しみ方とは同時に認知コストの下げ方でもあり、そのひとの情報環境と自身の感情のコントロールという人格的な部分が密接に関わっている。
もちろん、最初に書いたように大半のひとにとって趣味は息抜きであり、堕落の場でしかない。
そのため、趣味のあり方がそのひとの人格を表すとまではいえないが、だからこそ、僕らが期待の外部をより強烈に無視するがゆえの錯誤と孤独はきわめて深い。
換言すれば、仕事や家事のような利害関係がない場所ではあえて自身を抑制するインセンティブが働かず、おたがいの趣味の交わりは根本的な層の隔たり(あるいは見方の歪み)を抱え込んでいるのだ。
via. ドラゴンクエストV 天空の花嫁
さて、以上の議論はデジタルゲームを例にしたが、それぞれの定義の抽象度を高めてより幅広い趣味にも適用させてみよう。
・コミュニケーションツールとして楽しむ層
・勝負事として楽しむ層
・最新トレンドを楽しむ層
・社会的評価や愛着があるものを楽しむ層
・特定のサブジャンルの探索を楽しむ層
コミュニケーションツールとして趣味を楽しむ層に特別な說明は要らないだろう。趣味自体というより趣味を介して繋がったコミュニティや人間関係の交流を楽しむもっとも広範かつ(「内部」の人間には)健全な層だ。
その性格から、完全に自己充足した趣味の楽しみ方をしていないかぎりこの層に片足を入れ、彼ら彼女らへの気遣いを示し、社会集団としてより大きな物事を動かすための協力は欠かせない。
勝負事として趣味を楽しむ層にはいくつかのヴァリエーションが考えられる。
まず、言葉どおりの意味で他人と競いあう(正確には優位をとる)ことで趣味を楽しむ層。何を競うかはさまざまだが、大抵は順位だったり人気だったり技術などだったりする。
この楽しみのひとはいかに他人に勝ることが快感で、他人に劣ることが不快かをよく知っている。そのため、マニアが情報入手と期待のコントロールに負荷をかけて探索行為を楽しむように、興味深くもこの層の競争にこだわるひとは趣味=息抜きでも負荷や不快感を負うことをためらわない。
もうひとつは勝負事を通して自身の上達を楽しむやり方だ。
だいたいの趣味では、慣れること、覚えること、詳しくなることで自身の成長を感じられる。フィットネスやスポーツのように身体強化を兼ねるものや、料理や写真のような創作・表現活動ではそれが顕著だが、近年最も脚光を浴びているデジタルゲームではコンテンツ自体にプレイヤーの成長を促し、実感させる仕組みが備わっているのは注目に値する。
目標を立て、試行錯誤し、課題を達成する一連のプロセスによって得られる自己効力感が精神衛生に良いことは以前書いたとおり。
両者の違いは勝負事自体(というよりは勝利の快感と称賛)が目的なのと、勝負事をとおした上達が目的なのとにあるだろう。
結局、ランニングひとつをとってもSNSでの人気の上下に夢中になるひともいれば、地域大会などで順位や記録を伸ばすことを目指すひともいるし、目標自体は何であれ、その達成をとおして自身の上達の実感を楽しむひともいる(もちろん現実のそれらはつねに複合的なものだが)。
特定のジャンル内での勝負事といってもそれが何を舞台としただれとの闘いであり、社会的承認をどこまで必要とするかで違いが生まれる。
最新トレンドを楽しむ層も特に說明は要らないだろう。世の中のトレンドがその都度の趣味になるひともいるし、特定の趣味のなかのトレンドを好むひともいるだろう。
重要なのは、トレンド(というすでに人気なもの)を楽しむことは自身の期待形成を流行りに委ねることであり、趣味を楽しむための認知コストを節約する方法ということだ。
その意味で、社会的評価や愛着があるものを楽しむ層はトレンドを好む層とは見方次第では対極にありながら双子のようでもある。
映画でも漫画でもファインアートでもなんでも、社会的にトレンドになるものの裏にはすでに社会的評価が蓄積したものがあり、その裏にはアクセスはできるものの無名同然のものが、その裏にはさらに消失したり破壊されたりしたアクセス不能なものの残骸が無数に散らばっている。
流行りものとはいわばコンテンツの海の波打ち際であり、それより少し先の「安全」な浅瀬はすでに社会的評価を得られたものたちだ。
この楽しみ方の層はときどきのトレンドにさほど見向きせず、比較的古いものを好むことから最新トレンドを楽しむ層とは対称的に思えるが、社会的評価が定着していないもの、たとえば発表されたばかりのものやだれも見向きしなくなったものというマニアの領分には手を出さず、自身の期待形成をすでにある評価に委ねるという意味では彼ら彼女らと根本は同じだ。
また、同じようにこの層の期待形成には自身の愛着も深く関わっている。
趣味は生活の息抜きでしかないからこそ、趣味に費やせる時間には明確な制限があり、だいたいの場合は10代後半から20代半ば、せいぜい30代半ばまでが趣味のゴールデンエイジだろう(もちろんそれ以降も趣味に耽けられるが、経済的余裕や世間体を気にしない図太さが必要になる)。
そのため、20代半ばをすぎてから労働者人生を終えるまでになにか新しい趣味をはじめ、真剣に打ち込むのが困難をきわめるのは当然としても、若い頃から続けてきた趣味の好みすらもゴールデンエイジに慣れ親しんだもので止まることはかなり頻繁に観察できる。
たとえば好きな音楽のジャンル、アニメや漫画のテイスト、応援するプロ野球球団などがそうだ。
趣味の好みの停滞は、趣味を楽しむのに必要な期待形成が自身の愛着に依存することによる。繰り返しになるが、趣味に没頭するにはすでに慣れ親しんだものでないといけないのだ。
最後に、特定のサブジャンルを探索して楽しむいわばマニア層はこれまで述べた期待形成により慎重で、間接化し、人為的に介入することで、趣味の没頭よりも探索行為を楽しむのに特徴がある。
最近流行っているから、友達がハマっているから、名作とされているから、自分がむかし好きだったからなどが没頭と評価の根拠(つまり期待形成)にならず、せいぜいチェックする動機や吟味の素材のひとつになるだけだ。
また、趣味の没頭と探索という違いはあるものの、趣味=息抜きにも関わらず高い負荷を背負ってでも自身の興味を追求する姿勢は趣味を勝負事として楽しむ層のストイックさと似通ってもいる。
ちなみに、この層を表すのにマニアという言葉を使い、世間的にはより膾炙されたオタクという語を僕は避けているが、その理由のひとつはオタクが探索行為を楽しむというより社会的評価や(特に)自身の愛着に依存して楽しむ層に見えるからだ。
この問題に深く立ち入る気はないが、このタイプが書いた批評文の評価の根拠はだいたい(連想した)過去作品への参照とその社会的評価に留まるので両者の見分けはつきやすい。
以上、趣味の層の特徴をかんたんに書いたが、それぞれとの違いを際立たせることである程度の得心はいったと思う。
最後に僕が強調したいのは、これらはあくまで「層」であり、それぞれに優劣はないことだ。あえて良し悪しの問題を持ち込むとしたらこれら全ての層を兼ねるあり方が優れていると考える。
例として僕の音楽の趣味を分析してみよう。
僕自身はまず音楽という分野で、だれそれより詳しくなりたい、人気を集めたいという競争意識がなく、(恥ずべきことだが)技術的な勉強などをとおした上達の意識もない。
また、音楽を一緒に演ったり語りあったりする友人もいないし求めてもいないので、社会的な意識がまるでない。
昔は各国のヒットチャートから良い作品を見つけてその違いから文化の差を考えたりもしたが、今はそこまでの余裕も興味もないので最新トレンドにもまるで関心がない。
一方、社会的評価が高いものは Spotify や YouTube の視界にはいったら冒頭だけは聴き、むかし愛聴していたものでも定期的に振り返ってその価値を検証している。
また、書き方からもわかるとおり、僕は好きな音楽に没頭するよりも良い音楽を探すことに意味を感じるので、探索中心のマニア的な楽しみ方が僕の趣味のベースにある。
要するに、特定のサブジャンル(この場合は既存のジャンルではなく自分自身の価値基準に適うもの)を探索して楽しむ層を軸に、社会的評価や愛着があるものを楽しむ層も包摂するが、それ以外(の特に社会性に関わる層)にはまるで無頓着というかなり歪で狭隘な態度と分析できる。
そのため、世間の大部分の音楽好きとは(どちらかが相手に合わせないかぎり)コミュニケーションがままならないし、僕自身には(狭隘な楽しみ方しか知らないので)わからないが、前回書いたような見方の偏りが僕の音楽観には深く刻まれているのは想像に難くない。
すべての楽しみ方の層を兼ねるのが良いと僕が考えるのはつまり、共有するものの豊富さからあらゆる層とコミュニケーションが可能で、それゆえに自身の仮面の歪さを修整し続けられる可能性をもつからだ。
趣味を生活の息抜きとするなら、いかに期待形成の認知コストをかけず、幸福感を増大させるかという堕落の仕方が問題になる。
思うにそのもっとも健全で難儀なやり方が趣味を多層的な楽しみ方で味わうことだろう。反対にもっとも危険で簡便なのが薬物や賭博で脳を直接刺激することだが、趣味と遊びの問題でこれらをどう位置付けるかはまた別の話。
結局、自分の趣味を語らい、経験に共感してくれる者がいなければ、探索や上達の喜びだけでなく孤独の業もまた深まらざるをえない。猟奇殺人者の悪趣味はいただけないがそのひりつくような孤独の痛みに共感できるのは僕だけではないはずだ。