想定客層の質が表現をきめる
Twitter には定期的に話題になり、賛否の石つぶてが渦巻いてはたがいの陣営の境界線だけが明確になって消えるトピックがある。
専門用語を使うな論もそのひとつだ。
たとえばこんな感じに。
ほんとうに賢い人は「わかりにくい話を、わかりやすく伝えられる人」です。専門用語でマウントを取ってくる人は「賢いと思われたい人」です。
— じゅんご (@jungo_FanMarke) September 2, 2022
僕の立場をいうと、真に賢いひとは難解なことをカンタンな言葉に噛み砕いて説明できるひとだという立場に依拠したこの手の論法は、自分に理解できない物事のあることを許せない(つまり自分が世界の中心だと思いなしている)蛮族の打ち壊しにすぎないので無視した方がいい。
ただ、一理あることも認めなくてはならない。
というのも、どんなカテゴリーや社会集団にも本物と偽物(つまり本物の真似をしているだけのモノやひと)があるように、専門用語をなんとなくの「身ぶり」で使うひとにはこの論は有効だからだ。
学問の世界には巨人の肩の上に立つという表現がある。
かのアイザック・ニュートンが手紙に書き残したことで有名なこの慣用表現は、巨人、つまり、偉大なる先人たちの業績(たとえば、既存の理論や思想、業績、専門用語など)を学ぶことで車輪の再発明を避け、その歴史を参照することで自分の仕事を価値付けられることを意味する。
もっとも、この場合の「巨人」が膨大な数の平凡な研究者か革命的な思想をもたらした偉人かは諸説あるが、この際はどうでもよくて、僕が今書きたいのは専門家集団の群れの外で「巨人」の肩の上に立つ作法にはある難しさと陥穽が潜んでいることだ。
そもそも専門用語や理論とは(学術の世界にかぎらず)集合的な経験をなかば人為的に圧縮した概念のことだ。
たとえば、タクティカルシューティングというゲームジャンルにおいて、プリエイムやラーク、ベイト、アンカーなどの専門用語を使わずにプレイングを語ることは難しいが、それは一定の行動や技術、考え方をひとつの語に圧縮し、そのお約束的な意味あいを社会集団内で共有することでより簡潔なコミュニケーションを可能にしていることによる。
そのため、言語感覚に恵まれていないかぎり、専門用語や理論を使わずに(きちんと)語ることは言葉の物量を要し、(誠実であるかぎり)まわりくどくなることを避けられない。
まさしく、下駄を履かない、巨人の肩の上に立たないわけで、専門用語や理論を使う意義とはまさにその基礎的な議論をスキップすることにある。
問題がややこしくなるのはそれらを一般向けの文章で使う場合だ。
そもそも専門用語や理論が使われる場所、すなわち特定分野の社会集団内では、その専門家集団自体がそれらの使用方法のチェック機能として働いている(もちろんそれは専門家集団自体がなんらかを間違う可能性を否定しない)。
しかし、一般向けの書き物ではこのチェック機能が存在しない。
そのため、書き手自身による(読者の啓蒙ではなく、懸命な読み手が自分の文章を検証できるようにするための)専門用語や理論の説明が必要になるため、基礎的な議論をスキップするどころかかえって予備的なことに文字数を割かなくてはならなくなってしまう。
反対に、それらを説明抜きに使うとだいたいのひとには装飾物としてしか機能せず、その専門化然とした「身ぶり」に惹かれて不必要に有難がるひともいれば、苛立ち、打ち壊したがるひともあらわれる。
当然、書き手の意図が基礎的な議論をスキップしたいのであれ、憧れの書き手の真似事をしたいのであれ、その専門用語や理論が読者視点ではただの飾りにすぎないなら専門用語を使うな論はそのかぎりでは有効だろう。
結局、大事なのは想定読者がだれかだ。
特定分野の社会集団に向けて書く場合はなんの問題もない。
問題が起きるのは一般向けに書く場合で、(書き手が賢明な読者に誠実であるかぎり)専門用語や理論の予備的な説明が必要になるため基礎的な議論をスキップするという本来の使用目的からやや逸れてしまい、また、それらの説明抜きの使用により専門家の「身ぶり」としてしか(本人の意図はどうであれ)機能しないなら不必要な使用は避けた方がおたがいに良いはずだ。
もちろん裏返せば、専門家の「身ぶり」を真似るのが(だいたいの場合は無意識的な)狙いならじゃんじゃん説明抜きに着飾った方がいい。誘蛾灯に惹かれる読者は少なくない。
要するに、文章(にかぎらず表現全般)を決めるのは内なる想定読者の質と幅だ。
僕個人のことをいうと、学生時代にその場で出会ったひとたちと専門用語や理論を用いずに哲学的議論をする哲学カフェのイベントを50回以上は主催してきた影響で、自分の書き物での使用にはやや潔癖すぎるきらいがある。
ただ、僕がその経験から学んだのは、既存の専門用語を使わなくても精密な議論ができるだけでなく、それらを使うことで重要な疑問にも蓋をできてしまえることだ。
たとえば、デジタルゲームや映画などの物語を解釈するうえで社会学や心理学のそれっぽい考え方をもちだした場合、書き手はふたつの爆弾を抱え込むことになる。
ひとつは既に述べたとおり書き手自身の使い方(あるいは理解の仕方)の適切さだ。
もちろん、特定分野の専門家で構成された社会集団に向けて書く場合には(健全なチェック機能が働いているかぎり)問題にならないが、書きっぱなしが前提の一般向けではそれを正される機会がきわめて少ない。
そのため、書き手の意図はどうあれ、賢明な読者の存在に賭けて使用する概念を読者の検証のためにまわりくどく説明するか、専門家集団内での経験を信じてそのまま使うか