プレイヤーの棲み分け
前回書いたように、ゲーム文化の担い手は従来の「プレイヤー」の枠に留まらず「ビュワー」にまで広がった。
あるいはそう認めざるをえない状況が出現した。
「ゲーマー」という語の含意するオタク感が今の担い手を表すのにやや引っ掻かるのはゲームの楽しみ方が多様化し、断片化し、可処分時間を奪いあうコンテンツ間競争に身を投じたからだ。
ゲーム実況・配信動画を視聴するあり方は、実際にプレイするよりかなり低コストなため、現代の氾濫したコンテンツ環境の隙間を埋めるのにこれ以上ないほど適している。
くわえて、リアルタイムの配信視聴ではビッツやスパチャ(投げ銭)を通した画面越しのコミュニケーションも可能にした。ゲーム配信が実際のプレイではなく友だちの家でやいのやいの騒ぐことの疑似体験といわれるゆえんだ。
たとえば、「かるび姫」あるいは「びっさん」の愛称で親しまれている赤見かるびという人気 VTuber がいる。
『Valorant』のセオリーを身に付けたプレイヤーならわかるが、彼女はけっして巧くない。
なんなら、スキルの使い方と立ち回りでいえば下手な方なのだが、一生懸命で体当たりな姿勢(もとい脳筋プレイ)とビッツを通した視聴者の助言や慰めや叱咤激励の数々が(プレイングにはまったく活かされないものの)友だちの家で応援したり笑ったりすることの独特な疑似体験コンテンツとして成立させている。
それは実際にプレイすることで得られる楽しさとは全く似て非なるものだ。
動画メディア全盛の今、あえて文章を書く意義とは、言葉=概念を整備し、ときに作ることで物事の見え方をより適切なかたちで提案し、世に蓄積させることにほかならない。
言葉=概念は自然に生まれ、広がり、あるいは廃れ、変わるものだからこそ、より精確な表現でものの見方を残すには言葉を個人の範囲内で意識的に管理することが必要だ。
「ゲーマー」はその変化の好例だろう。
つまり、その裾野の拡がりはたんに数の増大だけでなく、ゲームとの関係のあり方が多様化し、ひとりのひとのなかでもその多様なあり方が混淆化し、その多様さと広範さゆえに歪んだかたちで硬直化している。
前回採りあげた「ゲームを買おう」という呼び掛けへの違和感は(もし僕以外に感じるひとがいたなら)そうした現実との乖離によるはずだ。
批評連載1:ゲーム文化の担い手はプレイヤーを越えている
近年、ゲーム配信文化の隆盛とともに「ゲーマー」の裾野が急速にひろがってきた。 「ゲーマー」とわざわざ括弧付きで書いたのは配信文化の担い手がかならずしも実際にプレイする者にかぎらず、配信者や実況者のプレイングを観るのが好きな者、いわゆる動画視聴勢も含むからだ。
先日、あるゲーム研究者のアンケートが Twitter で話題になった。(中略)しかし、興味深いのはこの件の解説記事を書いた AUTOMATON の編集長の筆の端々から、ゲーマーは「プレイヤー」であるべきだという思想がはっきり感じとれることだ。
たとえば、僕自身でいえばゲーム実況・配信はジャンルを問わずよく観る方で、特定の配信者に長期間サブスクしたり、ゲーム作品を買う際にはオープニングの方の実況動画を購入の判断材料にしたりする。
また、モバイルやコンソールではあまりプレイしないが、PCではいわゆる基本プレイ無料の作品を無課金で遊び通したこともあるし、反対に気に入った武器スキンやアクセサリーを「お布施」として買い続けてもいるし、制作中のタイトルを Kickstarter で支援してたんに作品を買うぶん以上の金額を直接支払ったこともある。
ひとによっては Xbox のゲームパスや PlayStation Plus で特定のプラットフォームにサブスクして作品を所有せず楽しむこともあれば、ゲームセンターのアーケードゲームを愛好することもあるだろう。
そのため、「ゲームを買おう」という主張の意味は理解できるが、表現としては特定の関係のあり方に依拠した認識の(あるいはアジテーションを目的とした意図的な)偏りを強く感じる。
重要なのは、現代の多様化したゲームとの関係のあり方はそれゆえにひとりの「ゲーマー」のなかで混ざりあい、そして、ひとりの「ゲーマー」でしかないがゆえ