傑作と駄作のはざまで
公平な評価がむずかしい理由
『ポケットモンスター スカーレット・バイオレット』は、世界的人気シリーズの待望の最新作として名誉ある門出は残念ながら迎えられなかった。
Metacritic でのユーザースコアの低さからは前作『ソード・シールド』や『Pokémon LEGENDS アルセウス』で築いた期待を大きく裏切ったことが見てとれる。もちろんその原因は未修正のバグの多さや描画処理の遅さ、フレームレートの急激な低下などでプレイ体験の快適さを実現できなかったせいだ。その結果、リリースから約2週間後には任天堂と株式会社ポケモンが異例の謝罪文を発表したのはよく知られるとおり。
『ポケモンSV』は公平な評価がだれにでも難しい作品だ。
その理由のひとつは、プレイ体験の快適さをどこまで評価し、不快さをどこまで許容するかという個々人のゲーム観(というよりは人生における趣味の位置付け)に左右されるからだ。以前書いたように趣味は息抜きであり堕落の場でしかない。高負荷を呑みこめるのは一部のもの好きだけで、だいたいは中身よりもいかに没入できるかを重視しがちだ。
もうひとつは、「ポケモン」という歴史あるゲームシステムがあまりに身近なせいでその姿が見えづらくなっていることだ。そのため、ポケモンがあまり好きではないひとは新要素のオープンワールドやテラスタルを全体から切り離して論じ、ポケモンが好きなひとはそもそもなぜポケモンというゲームが面白いかを說明しづらく、両者のあいだで議論が成立しづらい。あるいはそもそも必要とされていない。
本作の評価は日本と英語圏とで大きな差がある。
とはいえ、リリース当初から英語圏と同様にパフォーマンスやUIへの不満の声が多かったのもたしかで、ネモのミームがあれほど話題にならなければ日本国内でも賛否はもっと分かれていたはずだ(そういえば、ゲームキャストの中のひとが、日本市場のレビューが辛いせいで海外のゲーム開発がローカライズを渋っている說を解説する件はどうなったのだろう)
僕自身の約150時間前後のプレイ体験では、処理落ちや進行不能バグといった致命的なものには遭遇しなかった。プレイが快適なのにこしたことはないが、快適さが「神ゲー」を保証するわけでもない。プレイ体験の不快さはメジャータイトルとしては手痛いが、作品自体はプレイアブルで、マイナス要素として許容できる範囲内という見方を僕はとる。
おもうに、ゲームタイトルとしてのポケモンは周辺のライセンスビジネスと連携した販売・広告スケジュールに組み込まれており、AAA級タイトルにありがちな半年から1年程のリリース延期ができない事情にあったと推測される。だから許されるわけでもないが、ポケモンというIPの特殊さを無視してゲームフリークの開発力を素朴に批判するのもやや筋違いだろう。
この批評記事は、ポケットモンスターというゲームデザインの分析からはじめる。
400匹前後のポケモンからお気に入りのものを捕獲し、育成し、パーティーを組み、戦わせるほかに類をみない仕組みがなぜ面白いか。これをあきらかにすることではじめて『ポケモンSV』の仕様変更やテラスタルの意義、批判されがちなオープンワールドの問題などを構造からより適切に理解して作品評価に繋げられるだろう。
『ポケモンSV』はそれぐらいの遠回りを要するほど複雑な構造をしている。かんたんに語れる作品ではけっしてない。

ポケモンシステムの面白さ
ポケットモンスターというゲームは、数百種類を越える特定の地方のポケモンから好きな個体を捕獲し、育成し、組織し、戦闘させることを基本システムとしている。外伝的な位置付けの『アルセウス』でも通底するこの骨子は何度強調してもあまりある。
問題はそれがなぜ面白いかだ。
ポケモンバトルの基本は、効果ばつぐんの技で相手を攻撃し、いまひとつの技で相手の攻撃を受け切ることだ。タイプ相性によるダメージ倍率の変化はとても大きく、その組み合わせでポケモンの強さの何割かは決まるといっても過言ではない。たとえば、みず&でんきのウォッシュロトムは特性「ふゆう」の効果もあって2倍弱点がくさのみという恵まれたタイプ相性をもつ。種族値が特別高いわけでも技幅が広いわけでもないのにどの対戦環境でも愛されてきたのはほぼ全てのダメージタイプを等倍以下で抑えられる汎用性の高さにあるだろう。
ポケモンバトルをタイプ相性が支配するということは、強力なポケモンはいても最強のポケモンはいないということだ。ポケモンの型ごとに明確な役割があり、その強みと弱みに限界付けられている。
ポケモンにストラテジー(戦略)の面白さが生まれるのはこの特徴を意識してパーティーを組むときだ。つまり、かぎられた枠をどのように埋めればそれぞれの強みを活かし、あらゆるタイプとの対面をより有利なものにできるか。もちろんその取捨選択は旅の途中で捕まえられるポケモンに制約があるからこそ一層面白くなる。
たとえば、最近「人生縛り」という蘇生なし&同種類の使用なしという特殊なルールで『ポケモンSV』をはじめたある人気配信者の実況を楽しんでいるが、彼は最序盤のモブトレーナーに6体中5体を葬られるという驚異の撮れ高を記録した。その大惨事の原因はあきらかだ。パーティーが御三家ポケモンのホゲータ(ほのお)ありきの構成で、相性補完のいいポケモンがおらず、ほのおに強いコダック(みず)とドロバンコ(じめん)への回答がなかったのだ。ポケモンシリーズは『エルデンリング』のように難易度を縛りで調整する手段が多いが、それらを制限した素のゲームシステムは相応にシビアでやりごたえがある。本編クリア後の PvP が人気なのもゆえなきことではない。
もちろん、慣れたプレイヤーなら意図的に進化させていない弱いポケモンを軸にしたり、イーブイの進化系だけで構成したブイズ統一や特定のタイプ統一のようなより好みやコンセプトを重視したパーティーでも攻略できるだろう。
その数値上の強さを手放したロールプレイを可能にしているのは、ポケモンの役割を明確にした育成と実際のプレイングというタクティカルな選択の数々であることはいうまでもない。
ロールプレイングゲームという場合、だいたいは「ファイナルファンタジー」シリーズが道を付けた育成要素のある物語主導のシネマティックな作品がただ漠然とそう呼ばれることが多い。しかし、その言葉の意味とTRPGの歴史との繋がりを考慮するとこの使い方は誤りであり悪しき習慣といわざるをえない。というのも、ロールプレイングには、コンセプトの明確化、その遂行と洗練、そして、ゲーム内の課題の解決といくつかの要素があるからだ。
ロールプレイングの面白さとは現実の日常生活ではもとめられないこの想像力と試行錯誤にある。
あたりまえだが、仕事や家事や学業で要求されるのはすでにあるタスクをほどほどの精度とほどほどの早さでリスクを負って完遂することだ。頭脳労働で付加価値を生むような働きはかならずしも正当に評価されるとはかぎらず、ゼロからはじめる仕事の機会にいつでも恵まれるわけじゃない。
そう考えると、現実社会とはことなる魅力的な世界観でプレイヤーキャラクターのロール(ビルド)をいちから考え、育成し、場合によってはチームを組織し、結果と報酬があきらかな課題(クエスト)に挑み、戦術レベルでも試行錯誤するロールプレイングがなぜ楽しいかわかるだろう。
一方、物語主導のシネマティックなゲームは育成要素があるといえどもロールプレイングのいくつかの部分を簡略化している。たとえば、プレイヤーキャラクターがプリメイドだったり、仲間も含めビルドの違いがあまり出ないほど戦術的な要素が少なかったり、プレイヤーの選択が物語におよそ影響らしい影響をあたえなかったりだ。シネマティックなゲームではプレイヤーがいちからコンセプトを考える必要はなく、経験値とスキルツリーシステムはあってもビルドで型の違いが生まれず、物語上の選択にあたまを悩ませる意味もない。
以前批評を書いた『The Last of Us Part Ⅱ』は擬似RPG要素をもったシネマティックなゲームの到達点であり終着点だろう。自由な探索、自由なビルド、自由な戦術が一見出来そうだが、その選択とプレイングに意味はなく、操作キャラクター同士で苛めあう結末も避けられない。
さて、ロールプレイングの骨子を確認したところで『ポケモンSV』に立ち返ろう。
たしかにこちらでもプレイヤーの選択が物語として意味をもたず、プレイヤーキャラクターにできることはかなり限られている。しかし、すでに述べたように数百種類を越えるポケモンから好きな個体を捕獲し、育成し、組織し、戦闘させる基本システムにストラテジーとロールプレイングの面白さがある。
さらに、ポケモンのレベルや戦闘中の使用アイテムに差がある NPC との非対称戦ではなく、フラットな対戦条件でおこなう対人戦ではそのタクティクス