狭間の地の遺産
コンテンツの腐敗に抗う
ひとの心を変える作品がある。
胸の熱くなるヒューマンドラマに明日も生き抜く心の糧をもらう、のではなく、コンテンツにもとめる水準を引き上げ、拡張し、ハッキリさせる素晴らしい作品だ。ときにはその出会いが人生を変えることもある。僕の場合はある有名な美術家からもらった塩トマトがそうだった。
『エルデンリング』がある種の共通体験としてゲーマーたちの脳に焼きつくことを想像する。
美味しいものがそうであるように、この作品がゲーマーの舌を飛躍的に肥えさせるかもしれない。従来どおりのものを飽きさせ、フォロワーを生み、その作品を越えることに価値が見出され、つまりは「エルデンリング以前と以後」で考えられるようになるひとつの未来が。
リリースから約1年が経ってもなお有名配信者たちにプレイされ、何百人、何千人もの視聴者を集められるオフラインゲームはそう多くない。控えめにいってもそれは多様な戦術と死に様とスタイルの幅を実現し、プレイの数だけことなる体験を生んでいるからだろう。
この記事では、『エルデンリング』の批評から後世に引き継がれるべき要素を抽出する。それは個人的な推測であり、願望であり、挑発でもある。あえていえば、のちの時代から振り返ったときにあらわれる本作の意義をなかば予見する試みだ。
今の娯楽環境はコンテンツの数にも種類にも困らない、人類史上もっとも遊びがいのある時代だ。ただ浴びているだけで底に溜まり、蕩けあい、忘れられるからこそ、作品の意義を分析的な言葉に変えることにも一定の価値があるだろう。
それは、飽食の時代を支配するコンテンツの腐敗に抗することであり、恵まれた時代のきたるべき破局への身構えかもしれない。本作をプレイしたなら血溜まりと伝言がいかに役立つか(あるいは笑わせてくれるか)は身に沁みているはずだ。
僕の批評もそうなるといい。

万人向けの「濃い」作品
去年のゲームシーンを振り返ると、想定客層の狙いにしっかりと刺さるインディー寄りの作品が大きな話題を呼んだ。『Sifu』や『Stray』、『Cult of the Lamb』、『Marvel Snap 』、『Dark and Darker』がその好例だろう。
一方、メインストリーム向けの AAA 級タイトルでは『God of War Ragnarök』や『Horizon Forbidden West』ぐらいだろうか。多額の費用がマーケティングに消えたにも関わらず、今では DLC の情報以外ではあまり話題にならないことをおもうと少し寂しい感じもする。
昨年 GOTY の栄誉に浴した『