グラフィックの華美な装飾の先へ
最近、日本の国産デジタルゲームの世界的躍進が目覚ましい。
昨年最も評価された作品『Sekiro: Shadow Dies Twice』や『デス・ストランディング』にはじまり、今の新型コロナ禍による外出禁止もあってか『あつまれ どうぶつの森』や『バイオハザード RE3』、そして『ファイナルファンタジー7 リメイク』(以下、『FF7R』と略記)の情報を海外のゲームメディアが日夜熱心に発信している印象を受ける。
特に『FF7R』はメディアからもユーザーからも大絶賛の嵐で、1997年発売のオリジナル作品を最高とみなす無印原理主義者を除けば否定的な声を探すことすら難しく、今年のGOTY最有力候補であることは間違いないだろう。
とはいえ、日本文壇の芥川賞やアメリカ映画界のアカデミー賞などと同じように、権威ある賞や多数のユーザーからの支持がその作品の傑出を保証してくれるわけではない――その権威を信じ、コミュニティの雰囲気に同調するなら別だけども。
『FF7R』はたしかに素晴らしさを感じさせる非常に説得力の高い作品だ。
しかし、その説得力の仕掛けにほだされずに解体してみると、当然ながら本作にもきちんと分析的に腑分けすべき良し悪しがハッキリと観えてくる。
ドレスアップした覚醒エアリスにガチ恋してしまう気持ちは嫌というほどわかるが、デジタルゲー厶を評価しようという気運が世界的に高まっているからといって本作を手放しに絶賛してしまうのは批評家の恥だろう。
『FF7R』は “RPG” なのだろうか?
ジャンルという概念上のもので実際の作品を裁断することはその本当の良さをとかく見失わせがちだが、批評の補助線としてはまずこの素朴な疑問からはじめるのが適当なように思う。
というのも、過剰評価とはその作品や人物しか観えていないから維持されるのであって、評価の見直しにはより大きな文脈に置き直し、ほかの作品なり人物なりと比較する作業が必要だからだ。
さて、RPGを問うにはまずテーブルトップのRPGと欧米圏のCRPG文化を歴史的に考えないといけないが、記事の紙幅からも僕の教養からもそれが今できるとは思えないので、さしあたり、RPGの原則は “選択と結果” だと指摘するに留めたい。
つまり、何者かを創り、演じ、興じることは、見方を変えれば別様にありえた無数の何者か=キャラクター像を捨てることであり、さまざまな会話の応答、人間関係の移り変わり、彼ら彼女らが辿る物語の結末を責任とともに引き受けるということだ。
換言すれば、主人公らが自由に何でもこなせることはありえず、自分が選ばなかった会話選択のやりとりも行動の結果もストーリーの結末も、同じ物語のうえではただひとつしか経験できない。
たとえば、昨年彗星の如くあらわれたエストニアの ZA/UM が開発した『ディスコ・エリジウム』は、いわゆる取り返しのつかない要素として、初期ステータス値や成長ポイントの割り振りはもちろん、独自システムの思想キャビネットに探索中で得た多種多様な「思い付き」を定着させることで、一定時間後に初めてわかるバフ・デバフ効果を半永続的に付けられる仕組みだ。
当然、割り振り可能なポイントもキャビネットの数も厳しく制限されているので前述のように「何でもこなせる主人公」は作れず、苦手なタイプのスキルチェックには成功率僅か数パーセントという絶望的な挑戦をしないといけない。
また、ストーリーとしては共産主義革命の成功と敗退を経験した Ravacol という歴史的に複雑な街で、主人公がどういう政治思想の持ち主として振舞うかはプレイヤーの選択に委ねられている。
『FF7R』のようなメインストリーム向けの超大作とニッチな需要を満たすインディー作品との比較がフェアでないとしたら、一昨年の最高傑作『レッド・デッド・リデンプション2』(以下、『RDR2』と略記)はどうだろう?
たしかに『RDR2』もまた、『FF7R』と同様にステータス値の割り振りや成長要素、会話選択、シナリオの分岐などの選択の自由度に乏しく、RPGというよりは西部劇シミュレーターで、実際にある有名な業界人からゲームの特質でもあるメディアの双方向性に劣ると批判を受けたりもした。
しかし、本作には名誉レベルというシステムがあり、特定のクエスト中の行動や街なかでの立ち振る舞いに応じてお店での待遇などが変わるだけでなく、エンディングの分岐にも関わるとされている。
名誉レベルをあえて極端に下げる悪人プレイのメリットがあまりに薄過ぎ、インセンティブのバランスの悪さからロールプレイの自由度はないにひとしいが、それでも『FF7R』とは違い、プレイヤーの選択的行動にはかならず然るべき結果が憑きまとうゲームデザインだといえそうだ。
via. FF7リメイクのジェシーかわいいンゴねぇ