小説を書くとは異なる方法で創る
先日 note で公開した拙作「時空の錨は噛む」の作者解題を試みる。
※現在、1週間の無料公開期間を過ぎたため、作品は冒頭を除き有料記事に移行しました。今後も同じやり方で作品を発表するのでマメに僕の twitter をチェックして頂けると幸いです。
自作解説のねらいは以前有料記事でふれたので今は繰り返さないけども、僕の解説はあくまで設計図の説明と自己分析に過ぎず、実際に出来上がった作品への批評や分析、解釈とはまるで別物だということを事前に断っておきたい。
本作の背景にあるのはもちろん(?)今も猛威を振るう新型コロナウイルスで、中国・武漢で流行当初に何度かツイートした「未来人がコロナを撒いているんじゃね?」説が作品のもっとも大きな素になっている。
実際、世界各国で経済活動と長距離移動がとことん停滞しているおかげで温室効果ガスの排出量が著しく下がったのは事実で、収束後の経済活動も結局はリバウンドするであろうことを無視すれば、自然環境には今のところそれ自体が地球の自浄作用であるかのような良い効果を与えているようだ。
また、新型コロナの致死率が(少なくとも発生当初は)そこまで高くないにも関わらず、その感染性の高さから(少なくとも発生当初は)体力の低い高齢者を狙い撃ちしにきている様も実に興味深い。
というのも、世界各国の雰囲気というか空気感はわからないが、日本国内では常に5、60代以上の高齢者とそれより下の世代との分断による閉塞感が強くあり、また、日本政府の意思決定プロセスは高齢男性という同質性の高い集団で形成されているからだ。
それを踏まえると、タイムトラベルの可能な未来のエコテロリストが高齢男性を主な標的にしたウイルスを「人類の間引きによる地球の救済」のために撒きに来てもおかしくない……と想像してみた。
とはいえ、地球の過去に大規模なパンデミックを引き起こすことはタイムパラドックスによる自分のたちの消失リスクを犯すことになるわけで、ウイルス散布の実行犯が組織の命に背いて未来の恋人とその家族に避難勧告をする場面が作品のキーヴィジュアルとして強くあり、それがいくつかの削ぎ落としを経て物語の冒頭となっている――タイムトラベルでひと世代をまたいだ親しい者との邂逅はドイツ製のネットフリックス・ドラマ『ダーク』の影響が強い。
ちなみに、二酸化炭素濃度の上昇により深刻な大気汚染が発生したという本作の背景設定は、アメリカの古生物学者ピーター・ウォードによる過去の大量絶滅のいくつかはそれによる海洋微生物の硫化水素の大量放出とする仮説を元ネタにしている。
もし、仮に読者が筆者である僕に何かコメントを求めたくなるとしたらまずはこの執拗ともいえるアブノーマルな性描写についてだろう。
まず、性描写は僕にとって「引出しにある最も使いやすくて質の良い粘土」であって、その粘土自体には正直なところさほど興味がなかったりする。
実際、注意深く読まれた方は気付いたと思うけども、僕はこの作品中で猥褻さを帯びた語は1度たりとて使っておらず、性行為を思わせるいずれの場面も事後なり事前なりを中心に描くことで間接化し、ポルノ特有の甘ったるさを回避している、つもりだ。
したがって、性描写自体もまた僕の「粘土」ですらなく、僕が捏ねているのは「愛情の痛みと暴力」で、性描写はたんにその痛みをもっとも短く端的に表現しうる手段、正確には手段の手段に過ぎないというわけだ。
経験上、創作行為をするひとのなかでも自分のリアリティを基盤に表現するタイプの作者はなにかしら無意識的にも固執せざるをえないテーマを抱えている。
僕にとってはそれが「愛情の痛みと暴力」だったわけで、商業的に書くことをもとめられない限り僕はこのテーマを「粘土」に使い続けるだろうし、その理由を問われてもそういう人生に苦しんできたからとしか答えられないのであとは精神分析家に任せたい。
では、その「粘土」を使って何を創ろうとしていたかというとそれは自分にとってリアルな時間のカタチだ。
以前、香川県のゲーム時間規制条例に反対して書いたエッセイをお読みになった方はご存知のとおり、僕は高校生活の記憶にある種のPTSD的な苦しみを味わわせられてきており、それ以外にも無意識からのフラッシュバックというかたちで攻撃を仕掛けてくる嫌な記憶を数多く抱えている。
そんな僕にとって時間はたんに直線的に流れるだけでなく、相対的に伸び縮みしたり、プルースト的にゆったりと行きつ戻りつするだけでなく、また、押井守やジョナサン・ノーラン流にカンタンに改竄されうるものなだけでなく、僕にとっての時間とはまるで無数の記憶の遍在のように感じられる面が強