『僕ヤバ』の語りと構造を分析してみた
今、Twitter で話題沸騰中のラブコメ漫画、桜井のりおの『僕の心のヤバいやつ』をご存知だろうか?
Google トレンドで通称「僕ヤバ」の検索注目度を調べると、2019年末の『このマンガがすごい!』のオトコ部門で3位入賞した影響を除けばおおむね横ばいに近い緩やかな上昇傾向から3月末に一般認知度を急速に高めたことが観てとれる。
おもうに、不要不急の外出の自粛要請を受けてインターネットの利用時間が増し、先行き不透明な状況下で暗鬱な情報に晒されるなか、作者の桜井が展開していた『僕ヤバ』の Twitter マンガがある種の清涼剤として機能したのだろう。
実際、2万RT越えが当たり前になった3月以降の Twitter マンガはこの作者を追いかけていないひとでもちょくちょく見掛けたはずだ。
おでこ pic.twitter.com/x96gixK5Un
— 桜井のりお@僕ヤバ③ロ⑦発売中 (@lovely_pig328) March 26, 2020
実をいうと、僕は桜井の Twitter マンガをあまり良く思っていなかった。
高身長黒髪ストレートという天然系ハイスペック美少女の山田杏奈は不必要に胸を強調した描かれ方をされており、厨二病を派手にこじらせている陰キャ&コミュ症の市川京太郎との絡みもきわめて猥褻性が高い。
もちろんチビの市川がなぜ芸能活動中の山田に猛アタックされているかはわからず、読者の性嗜好や愛され願望を満たすだけの流行り物に映った。
つまり、なんだ、この(うらやま)けしからんマンガは、と。
今の日本のサブカル表現に僕がどういう見解をもっているかは以前書いたとおりで、『僕ヤバ』もその典型例に思えてならなかった。
まあ、山田の造形が連載当初に比べて女性的な部位を強調したもの変わり、twitter ではより親密な、あけすけにいえば性的な触れあいにフォーカスしているのは当然のSNS戦略とはいえ事実だけども。
ひょっとしたら、山田と同じぐらいの立ち位置で芸能活動をしていた(今もほそぼそと継続中の)いけすかない同級生との苦い記憶も影響したかもしれない。
特別な教養や高度な教育を前提としない大衆向けの「サブカル」は当然ながらだれにでもわかる刺激の感受性に、つまりはエロやグロに訴えがちになる。(中略)問題を複雑にしているのは、萌えコンテンツとされる女性イラストにそうした扇情的な表現コードが公然と指摘及び意識されないまま埋め込まれていることだろう。
その日、僕は憔悴していた。
書き上げたばかりの『ラスアス2』批評記事の疲労感が身体に残っていたのもあるし、作品理解をより深めるためにその陰惨な世界観と一方通行なゲームデザインに沈潜していた酔いもあった。
なんにせよ、僕は市川の何が(うらやま)けしからん状況を作りだしたのか読んでみたい気持ちになった――たとえそれが主人公補正に過ぎないとしてもしょせんは流行りものだと鼻で笑えば済む話だ。
新型コロナ禍で月給が3分の2以下に減った僕でも数百円分の電子書籍を買う自由はあっても良いはず……そうだろう?
正直に打ち明けると、作者の桜井への期待もあった。
6月23日の Twitter マンガが妙に印象に残っていて、短いながらも細やかな人間関係や人殺しの眼をしている山田の描き方などから作者が流行りもの以上の表現ができるのが観てとれたからだ。
よく見てるね pic.twitter.com/ruUFxaQafL
— 桜井のりお@僕ヤバ③ロ⑦発売中 (@lovely_pig328) June 23, 2020
分析的に観た場合、『僕ヤバ』の面白さにはいくつかポイントがある。
ひとつは、物語の舞台が意図的に割り切られた平和で幸せな世界であることだ。
『僕ヤバ』の世界には社会の嫌な部分や現実の不条理さ、人間の心の底にある暗さがいっさい存在しない――下ネタの頻出から低俗な汚い世界観も含んでいるようにみえるが、そのほとんどはユーモアで安全なフレームに囲われているので作品世界は清潔で「キレイ」なままだ。
多くの読者に愛されている理由はこれだろう。
新型コロナがいつ自分や身近なひとに発症するかわからず、日本経済の行方にも暗雲がより一層色濃く立ち込めて不確実性が増しているなか、『僕ヤバ』の平和な学園生活は多くのひとにきわめて魅力的に映ったはずだ。
もっとも、僕が批評的な興味を覚えたのはそれ自体ではなく、作品世界の居心地の良い薄さがたんに作者の物事をみつめるまなざしの反映というよりは意識的に作られていることにある。
たとえば、事実上の「いちゃラブ」状態にある山田と市川だが、性的な意味で山田に片想いしているお調子者の足立が主人公の市川を妬んでイジメに走るかと思いきや、「山田って…好きなやついんのかな…?」といじらしく頬を赤らめて市川に相談するくだりは、人間社会の暗い部分を読者が予期することを前提にした明るいユーモアだ。
また、市川に猛アプローチをかけている山田を時折彼女のグループメンバーが横目で観ているこまかい描き込みが散見されるが、山田と市川の絡みを中心的に描きながらも彼らを観るまなざしの存在を空間的に描くだけで、そこから女性同士の暗い情の縺れなどに発展しそうな気配は微塵も感じられない。
有りながら無いことはすなわち、作者が描けなかったのではなく、明確な意図をもってわざと描かなかったことを意味する。

ふたつめに、山田を影から観察する市川が洒脱なツッコミ(心の声)を交えながら話が展開する本作は、語りの構造をもつがゆえに小説的な面白さがあることだ。
特に、陰キャ&コミュ障の市川はツッコミ(心の声)の切れ味の良さとは裏腹に現実世界ではひ弱な受け答えをしがちで、当然ながら恋愛にも女心にも不得手なため彼に好意を寄せる山田の言動の真意をいつも掴み損ねる「信頼できない語り手」なことに注意が必要だ。
というのも、読者は市川の語りとともに大食漢・山田の愉快な生態とクラス模様を観ていくわけだが、透明な観察者ではいられない、つまり、クラスの女子に不意にいじられてモニョったり山田の猛アタックを受けてしどろもどろになったりする市川の陰キャ的行動と饒舌な語りのギャップが本作の主なユーモアとして、ときに重要な物語装置として機能するからだ。
たとえば、Karte.31「僕はLINEをやっている」では山田が市川にLINEをやっているかどうか尋ねる図書室の場面からはじまる。
もちろん、山田としては市川を友達登録したいため手を変え品を変えIDを交換する流れにもっていこうとするが、当の市川は『バ…バカにされている……!! 友達がいないからって…LINEくらいやるだろ!!(家族と)』と山田の意図を誤解し、しかもその気持ちを直接言わないがために両者の会話は「も〜〜〜」(山田)と平行線のまま教室の場面に切り替わる。
そして、クリスマスまでに彼氏が欲しい「ビッチ(命名:市川)」の発案と「レベル99でスライムを倒しに行くな」という彼女の謎理論により、市川とLINEがしたいだけの山田がなぜかクラスのフツメンにLINEを無理矢理聞きにいかされるのだが、このときの山田の「石室くん…LINEやってる?」で耳を大きくしていた市川の脳が覚醒する。


おわかりいただけただろうか。
教室の観察者=陰の者たらんとする語り手の市川だが、冒頭の場面でふたりの気持ちがすれ違う原因となった市川の「誤解」が時間差で解けることで結果的に山田を守る(?)、わずか10頁の短さながら巧妙で美しいプロットだ。
このように、読者は市川のキレの良い語りに乗りながらもその現実での行動の不一致に笑わせられ、気が付くとその語りが抱える「誤解」を装置とするドラマにオチを付けられている。
一部界隈で『僕ヤバ』の真のヒロインは市川、控えめにいっても山田とのダブルヒロインという声が挙がっているのはたんに山田が市川を攻めに攻めているだけでなく、作品の構造として市川の語りと行動のズレを機能させ、ときとしてその認識の不一致をユーモアなりプロットの装置なりとして読者に提示しているからにほかならない。
そのため、『僕ヤバ』を注意深く読むひとにとって市川はたんに思春期の鬱屈をくすぐる感情移入先でなく、あくまで作中での言動の可愛さや面白さを愛でる対象=ヒロインになっているのだ。
ところで、「誤解」の話をするならばこの場面で山田もまた市川の意図を誤解していることも指摘しておきたい。
というのも、市川を横目でみながら躊躇いがちにLINEの有無をフツメンに聞く山田は、結果的に、市川の叫び声に妨害され、嬉しそうな笑みを浮かべているが、市川自身は別に特別な意図はなく誤解解消の発見に驚いただけだからだ。
本作でいちばん僕が興味深く感じたのはこの絶妙な距離感だ。
ひとりの男性として主人公があまりに(うらやま)けしからん設定と状況のラブコメでありながら、ふたりが相手にときめく瞬間は大抵の場合相手の意図を「誤解」したりされたりしており、なんというか、ふたりの心が通いあうロマンチックなシーンがいっさいない。
たとえどんなに相手と想いあっていても、あるいは相手を強く想うからこそ、理解不可能な、共約不可能な他人に留まり続けるという現実的な認識がこの陰キャと陽キャの異質な者同士の恋愛関係に反映されている。
実際、作中では山田の恋心の内側が明示的に描かれている箇所はなく――、
- 実際の山田の内心
- 読者が推測する山田の気持ち
- 市川=語り手が理解/誤解した山田の気持ち
――の3層のレイヤーに分けて読まないと本作の少し複雑なナラティブを楽しむことは難しいだろう。
たとえば、印象深くてわかりやすいのは秋田書店に職場見学でいった場面――。


いやいや、女子を何にもわかっていないのはお前の方だぞっと。
話を始めに戻すと、『僕ヤバ』を適切にかつ好意的に楽しむ読者にとっては語り手=市川のひととしての魅力はあきらかなため、山田がいつ恋に落ちたかがある意味で問題にならない――おかげで僕は当初の目的を果たすために3周(執筆時点では5周)もしてしまった。
だいたい、市川がひとの気持ちを想像できる良いヤツなのは Karte.2 「僕は憤怒した」から既にあきらかで、社会科の研究発表の資料を「めっちゃ汚かったから」と成績優秀な「ビッチ」に造り直されて静かに机で泣いている彼女を観察しながら――、
ああああああああ
泣いている…
そんなちょっとしたことで泣くのか…いや
ちょっとしたことじゃないんだろうな
と、相手の立場にたって思い直している。
もし、ツイッタランドの住民たちが市川の爪の垢を煎じて飲めばもう少し平穏なネットライフを送れるのは間違いないのだが……。
しかも、市川は影でそう思い遣るだけでなく実際の行動にも移せるのだが、かなしいかな、所詮は陰キャ&コミュ障なので不器用なかたちでしか山田に暴発気味の優しさを示せないことにフィクショナルな人物としてのユニークな魅力がある。
本作を市川の語りに乗って素朴に読めば、冒頭から Karte.14「僕は何もできない」は主人公が自分の心のヤバいやつが山田への恋心だと気付く過程に思えるが、市川の語りに気を付けて丹念に読むと、後日談の Karte.15「僕は抱きしめたい」までは山田が少しずつ市川の不器用な優しさに気付いていくなかで恋心をほぼ同時に自覚する過程でもあることに気付くはずだ。
たまたまだが、小山晃弘という(多分)有名なツイッタラーの方が山田を「特にきっかけもなく恋に落ちるような女」と称しているのを本記事執筆中に拝見した。
おもうに、市川の信頼できない語りをいい加減にしか読んでなく、Karte.15 の最後のひとコマで市川の語りと実際の山田の様子に大きなズレがあるのを見落としているのだろう。
個人的には、小山のようにろくな作品鑑賞も分析もしないくせにジャンル史の小さな文脈から大上段に構えた言葉で裁断したり、あるいは逆に、装飾的に誉めそやしたりする安易なやりくちがいかにもな「オタク語り」で反吐がでるが、まあ、この人物に限ったことではないのでどうでもいい。
なんにせよ、桜井のりおの『僕の心のヤバいやつ』は Twitter 漫画のキャッチーさとあざとさとは裏腹に、主人公・市川の読者への語りが騙りであり、山田の内心をブラックボックス化することでさまざまな推測と解釈を可能にし、市川の認識の癖というかコミュ障っぷりをうまくプロットに組み込んだやや複雑な作品構造をしている。
僕自身はその幸福な薄さが成す平穏な作品世界を絶賛まではしないが、読者にわかりやすいキャラクターの魅力と丹念に作られた読み返し甲斐のある複雑な作品構成のあざやかな両立は見事というほかない。
『僕ヤバ』の最初の6話はマンガクロスにて無料で読めるので興味をもった方、創作経験のある方はぜひ試し読みしてみてほしい。