大学生はコロナ禍の世界をどう観るか
SNS時代のおめでたい野次馬の暴走、種苗法-ドン・キホーテ-テラスハウス
せっかく気になっている相手と一緒に遊びに来たというのに、相手は隙を見つけてはスマホを取り出し、指紋の凹凸の具合が心配になるほど熱心に画面をこすっているのでモヤモヤした、という経験をお持ちの方はいますか。しかも、それとなく画面を覗いてみると(最も推奨されざる行為)、ツイッターのアプリが開かれていて、今まさに「沈黙が長すぎて息苦しい、なんか喋れよ。はやく帰りたい」という心の叫びが、裏アカウントから投稿されようとしている……。
羊谷:今、新型コロナ禍でさまざまな業種・業態が変化を迫られています。大学生もまた同様でしょうが、ソーシャルメディアの特性上、20代半ばを越えて学生さんとの繋がりがなくなるとその実情が全く見えません。マスメディアへの信頼が持ちにくい時代でもありますしね。まず、春先の新型コロナの影響でどのように学生生活が変わったか教えてください。
ピルスト:私の大学は、入構禁止期間が4月から約2ヶ月間続き、6月に解除されました。オンライン授業は5月中旬から開始され、教授の弛緩した講義を倍速で聞き流せるという効率化や、交通費がかからないというお得感がありますが、だったらはじめから参考書を読めばよく、そもそも授業料を払い続けていることを考えれば、オンライン授業にあまり利点は感じられません。特に、新入生はかわいそうだなと思います。せっかく受験から解放されたと思った矢先、質の低い(かもしれない)映像型予備校に幽閉されてしまったわけですから。しかも、まだ一度も同級生と会ったことがないと聞きます。バイトに関しては、飲食店なので宣言下では休業し、前後では営業時間の短縮、シフトの削減、さらにテイクアウト用メニューなるものが追加されたりと、直接的な影響を受けました。
あさだ:一番変わったのはあらゆる面での情報量でした。講義が原則オンラインになり、外出も生活に必要な分以外は省いたので、身体に飛び込んでくる視覚的、聴覚的、嗅覚的な情報が従来の半分以下に減った感じです。人の姿が見えず、人の声が聞こえず、街並みの変化も見えない。当初は、無駄な情報が減ったので、ゆっくり色々な文章を読んだり考えたりできるかと思いましたが、気付けばSNSを開く時間が増えていました。失われた情報量をSNSで埋め合わせようとしているのかな、と。また、6月頃はそれで時間が溶けることも増えたので、意識的に何もしない時間を作るようにしました。ひょっとしたら時間の感覚も間延びしているかもしれません。大学の同級生の声はたびたび通話で聞いていますが、姿が見えないので、生きた人と話している実感は薄いです。生身で会っている時には相手の仕草や表情が見えるので、そこで回答を判断したり、別の友人と遭遇して話を広げたりできましたが、それらが消えたコミュニケーションには正直まだ慣れません。
羊谷:興味深い論点ですね。あさださんにまずお聞きしますが、4回生のピルストさんよりも今期の授業数は多いと思います。ご自身の大学のオンライン授業及びコロナ禍の教育態勢をどのように観ていますか?
あさだ:私の場合、パソコンやスマートフォンを日常的に使っていたので、オンライン講義への変化にはそれほど難を感じませんでした。すんなり対応できたのは、秋学期テストの終了と、新型コロナが本格的に騒がれはじめた時期が被らなかったからでしょう。ただ、今の大学生でもPCに慣れている人ばかりではないですし、新入生は入学準備期と最初期の「自粛」期間が被ったわけで、大いに戸惑ったはずです。
オンライン講義は、科目によっては適宜聴き飛ばせるメリットもありますが、一人で画面へ向き合っていると、講義の質への不満が嫌でも自覚させられます。もともと、ここまで拘束時間を取らずとも、本一冊を読んで熟考すれば足りるのでは、この時間を圧縮すればどれだけの本が読めるかなどの不満がありましたから。実際に聴き飛ばしてみると、「こんなことで済む講義にあんな高い授業料を払っていたのか」という実感がショックとしてやってきました。これで済むならば学歴を買いに上京したと言われても仕方ない、という思いと、学生の能動的な姿勢に多くを依っている大学だな、という思いが交錯しました。なら図書館を活用しよう、という発想に至りましたが、当初は臨時休館でどうしようもなく、途方に暮れました。今は予約入館と郵送貸出で何とかなっていますが、気軽に行って「ついでにこの資料も借りよう」というやり方ができなくなったのは痛いです。
羊谷:大学の授業はたしかにピンキリですね。僕の経験上、ゼミも講義も平均より少し下の学生にあわせるので自発的に勉強できる学生には物足りないでしょう。だからこそ、大学の価値は図書館や興味関心の近いひとが自然に集れる場所の濃さにあったわけですが……。

羊谷:次にお聞きしたいのはあさださんが最初に話されたコミュニケーションと情報量の変化です。僕自身はコロナ以前から寄稿者さんとの打ち合わせはオンライン通話でやっていて、ピルストさんとはまだお互いの顔も知りません(笑) そこで僕がいちばん気を付けているのはポジティブな感情を直接表現し、生身の相手と接している実感をもってもらうこと。やっぱりこの感覚がないとひとは猜疑心を抱いてしまうので。大学生ってほとんどの場合、英語クラス、サークル、ゼミなどで普通に活動していれば自然と友だちができますが、社会人は見ず知らずの相手でも積極的に声を掛けたりイベントに参加したりしないと人間関係を拡げられません。今の学生がコロナ禍で突然コミュニケーション難度の高い環境に投げ出されたのはつくづく気の毒です。ピルストさんはあさださんの指摘を聞いてどう思いましたか?
ピルスト:身体的な情報量の減少に関して、あさださんと同じ感想です。身体的なコミュニケーションの大部分が、情報化によってそぎ落とされてしまっていると思います。ZOOMなどの動画のリアルタイム共有なら相手の表情の一瞬のゆらぎや、語調の変化などはなんとか読みとれますが、脚を組みなおしたり、爪をいじったりしている様子は見えません。それらのしぐさは明確な意味を伝えているわけではないので、言葉が聞こえればべつに見えなくてもいいのですが、見えた方が豊かであることは間違いないと思います。また、友人をつくる際に私は、特に目的のない時間をその人と一緒に過ごせるかどうか、という点で判断してきました。しかしこの有意義な「だらだら」というコミュニケーションは、コロナ禍では自宅で一人でやるしかないということで、とても残念であり不満です(でした)。
羊谷:おふたりのお話を聴いて心配になるのは学生のメンタルヘルスですね。僕の経験では、2011年の東日本大震災のときと近いものを感じます。あのときの方が突発的で、国内の被害規模は大きかったですが、今回は真綿で頸を締めるように経済と心理状態を毒しています。コロナ禍の学生のメンタルヘルスについてご自身の経験やご友人などの印象的なお話を教えてください。
あさだ:私の場合は、気の置けない友人たちに生身で会いたい、距離も音量も気にせず会話したい、という欲が日増しに強まっています。通話しているのでコミュニケーションが取れていないわけではありませんが、先に述べた身体的情報の希薄さに加え、アパートの壁が薄いという事情もあります。まめに通話を行い、溜まっている鬱憤や愚痴を吐き出すのが発散方法ですね。ただでさえ鬱々としているので、明るく振る舞った方がいいのかとも考えましたが、万事それでは蓋をし続けることになるので、かならず無理が来る。ネガティヴな感情を意識的に発話することで、バランスを取っています。もちろんこれは、話し相手の友人と互いに了解したうえでですが。また、学内の友人に加え、SNSで知り合った友人とも文章の遣り取りをしているので、どうにか世情に疎くならずに済んでいます。元々構築されていた交友関係に救われている部分が大きいですね。新入生とはまだ直接には会えていませんが、横の人間関係を作るスタートラインにすら立てていない人が非常に多いとも聞き、ピルストさんのように、つらかろうな、と思っています。
ピルスト:メンタルヘルスでいえば、私は一人でいることにそれほど苦痛を感じない人間なので、長い休暇の気分でのんきに暮らしていますが、それは口座残高から目をそらしていても何とか生活できる恵まれた経済基盤があるからにすぎません。今のところ、身近には退学を余儀なくされるほど困窮した友人はいませんが、コロナ禍による就職活動の遅延もあいまって、精神的に憔悴している友人はいました。どうやら