ソーシャルメディアの罵詈雑言の暴力
せっかく気になっている相手と一緒に遊びに来たというのに、相手は隙を見つけてはスマホを取り出し、指紋の凹凸の具合が心配になるほど熱心に画面をこすっているのでモヤモヤした、という経験をお持ちの方はいますか。しかも、それとなく画面を覗いてみると(最も推奨されざる行為)、ツイッターのアプリが開かれていて、今まさに「沈黙が長すぎて息苦しい、なんか喋れよ。はやく帰りたい」という心の叫びが、裏アカウントから投稿されようとしている……。
SNSとは人間の隠された心理を可視化する、暗視ゴーグル並みの画期的な発明です。秘密があるから疑いが生じるのだ、すべてさらけ出せば疑いは消え、そこから生じる人間の浅ましさもきれいに洗浄される、という屈託のない自由な思想こそが重要なのでしょう。
私は前回の記事で、罵り合いの二つの大きな要素、当事者と野次馬について検証しました。ただ、主に当事者を検証するばかりで野次馬についてあまり言及できなかったので、今回、結果として野次馬について検証する内容となったのは、第二回として自然な成り行きだったのだと思います。当事者についての「じつに啓発的で分かりやすく猿にも読めて誰もが人生の指針にしたいと切望するような、有益な情報」に興味のある方は是非、第一回をお読みになってください。
罵り合いの構造、R-指定と呂布カルマの名勝負を文学的に読み解く
誰かが猛烈に怒鳴られていたり、しょうもない言い合いをしている様子というのは、じつに面白い見世物です。ただ、自分が怒鳴られたり、言い争いに巻き込まれるとなると、事態は一転、憂鬱で腹立たしいものに変わってしまうのではないでしょうか。
さっそく、前回の予告通り「ドン・キホーテ」における罵り合いを詳らかにし、理解をさらに深めていきましょう。と、言いたいのですが、遠くで小銭が地面をはねる音すら決して聞き逃さない、繊細で貪欲な人間よろしく、私はふいの罵り合いの気配を感じ取りました。まずは、青い鳥のさえずり、トラツグミのような不吉な響きを含ませるその鳴き声を頼りに、罵り合いの気配の充満するネット世界を訪ねてみることにします。寄り道とはいえ、新鮮な罵り合いに出会えれば儲けものです。
皆さん、「種子法」「種苗法」をご存知ですか?
— Ko Shibasaki 柴咲コウ (@ko_shibasaki) April 30, 2020
これは、有名タレントの柴咲コウ氏が、4/30に自身のTwitterアカウントで投稿したツイートです。存じ上げなかった私はネットで調べてみることにしました。というのも、どうやらこの教育的効果抜群のツイートをめぐってまさに罵り合いが、もとい、議論が紛糾しているようなのです。すでに群がり始めていた野次馬に交じってことの次第を鑑賞するために、前情報を集めましょう。以下は私がネットを平泳ぎしながら、手あたり次第に拾ってきた情報のまとめですから、当然信憑性に欠きます。
まず、種子法と種苗法は全く別の法律です。ただ、なぜか種子法はそれほど話題になっていないので、今回は種苗法を中心に見ていきます。
今年の通常国会に「種苗法改正案」という法案が提出されました。その法案をめぐり、今年の5月から6月にかけて、ネットを中心に反対運動が起こったのですが(反対運動とは、基本的には、自分のツイートにおそろいのハッシュタグをつけることを意味します)発端となったのが、上記のコウ氏の「ご存知ですか?」のツイートです。種苗法は、一般に、種の開発者の権利を守るものであると認識されています。知的財産の保護、と言い換えてもいいでしょう。今回の改正案では、新種の海外流出などの事態を受けて、その保護がより強力になるといわれています。一方、反対派は、保護とは同時に規制であり、新種の開発者の権利を強めることで、農家経営者への風当たりが強くなると意見します。
ただ、種の開発者と農家経営者は、対立しているわけではないのです。農家経営者がいなければ、どんなに優れた種があっても、効率的に作物を育て、収穫することはできません。また、病気に強く味の良い作物をローコストで生産するためには、優れた種の開発が必要です。論点は、新種の違法な海外流出を防ぐために、どこまで権利を保護するのか、という点に絞られるでしょう。
すると、種苗法改正案の反対派の意図は二つに分けることができるようです。一つは法案の国会への提出が拙速であったことに対する「一旦持ち帰らせてください」であり、いわば穏健な、内容の再検討の申し立てです。もう一つは、農林水産省すなわち国家と、なにやら裏であやしい法案が通ろうとしていると不安がるTwitter人民とのあいだで生じる、法案の内容とはさほど関係ない運動です。
現在(7/18)、通常国会の会期は終了し、種苗法改正案は見送りとなりました。大手柄の火付け役、コウ氏は次のようなツイートをしています。
今回のことに限らず、例えば学校や会社などで何かを決めるときに、誰か一部の人の意見で物事が決まっていってしまうと、残された人の懸念や不安が置いてきぼりになってしまいます。意見を言うことは、誰にも平等に与えられた権利です。
じつに常識的で率直な言葉で、人々の心理を的確に描きつつ、権利を主張してます。
しかし事実とは異なる投稿、捏造、誹謗中傷、脅迫行為、ミスリードしさらなる事実誤認した記事の作成元に関しては法的措置も検討しています。
— Ko Shibasaki 柴咲コウ (@ko_shibasaki) May 27, 2020
コウ氏は、意見をすることは大切だが、根も葉もない、人を傷つけるようなことは言ってはならない、と伝えようとしているのでしょう。建設的なことなら言ってもいいが、罵り合ってはいけない、と。実に優秀な見解です、が――。
前回の記事で私は、法的措置、すなわちルールの適用は、スポーツを成立させることはできても、罵り合いを成立させることはできない、と書いたつもりです(もしかするコウ氏は、前回の私の記事を読んでいないのかもしれません)。感情的な低次の意見は法的措置をとることで処理し、理性的な高次の意見、たとえば種苗法については自由に発言するべきである、というコウ氏の判断に、罵り合いを期待する私は、冗談ではなく、全く賛同できません。
たしかに、すべての感情的な意見にいちいちつき合っていたら、いくら時間があっても足りず、堂々めぐりを繰り返すだけです。それに、法的措置、という言葉は、誰かからの罵りに耐え切れなくなったとき、付き合いきれなくなったときに適用できる、一種のセーフティでもありました。しかし、はじめに人々、あるいは30万人を超える自身のフォロワーに感情的な働きかけをしたのは誰でしょう。たとえ意図がなかったとしても、コウ氏のツイートは「国家が悪巧みをしているかもしれない」という、危機意識への呼びかけと捉えられる種類のものだったのではないしょうか。もちろん、「たしかに悪巧みをしてそうだな」と思われる国家に問題があることは自明ですが。
じっさい、はじめからルールに則った、理性的な言葉で種苗法についての議論を起こすつもりであれば、今回のような認知の広がりは見せなかったでしょう。まず感情的に議論を起こし、最後は理性的に、感情のさまざまな副生成物を排除していくというやり方は、炎上商法そのものです。結果として、国会で見送りになった種苗法改正案について、それがよいことだったのか悪いことだったのか、素人の私には判断できません。ただ、罵り合い専門家としては、罵り合いの雰囲気だけを利用しながら、法をちらつかせて実際に罵り合わずに終わらせようとする上品な対応は、全き欺瞞であると考えます。罵り合いがなければ、罵り合いは鑑賞できず、世界は闇に閉ざされます。
コウ氏を批判するつもりはありません。しかし、そこにどんな大義があったとしても、おこなわれていることはマッチポンプ(自作自演)であり、罵り合いの上澄みを掬う行為であり、長期的にみれば消耗でしかないと思います。法的措置という言葉はトラブルを事前に回避するための抑止力としても機能するようですが、同時に、罵り合いの生成を阻害する有毒ガスとしての役割も果たすのです。また「抑止力」は、あえて換言するなら「脅し」でもあります。
このあたりで、罵り合いという野蛮な行為を奨励する私に対して「貴様は罵られたことがないから、自分を特権的な立場において無責任なことを言っているだけだ。世間知らずのおめでたい野郎め。人の気持ちを考えろ。感情のない人間のくず、差別主義者」といった意見もありえるでしょう。こんなことを言う野郎こそが「おめでたい人間」なのであって、耳を貸すだけ無駄ですし、たしかに、ささっと法的措置という言葉でまとめて処理したくもなります。
ところで、ここで唐突に現れて厚顔にも罵りをおこなう「おめでたい人間」とは、いったい誰なのでしょうか?
ここで種苗法の話題を一段落させ、ドン・キホーテの文学世界に入っていきたいと思います。ここがちょうど3分の1の地点で、もうすぐ折り返しですから、おたがい頑張りましょう。

思い直してみると、後編のドン・キホーテは、いわゆるおめでたい人間に翻弄され続ける人物であり、前編よりもさらに悲しみに満ちた物語が展開されていました。もしかすると、ここに手がかりが見つかるかもしれません。おめでたい人間の正体さえ分かれば、法的措置以外の手段の講じようがあるというものです。そうなれば