真の闘いの勝利者はここにいる
- 問答無用、斬捨御免。
- 原則、冒頭から読めた部分までしか読みません、時間は有限なので。
- 読者の便宜をはかって☆〇△×の4段階評価をカンタンに付けています。
- ブンゲイファイトクラブってなんぞ?という方はご自分でお調べください。
- 以下の批評は、羊谷知嘉個人の責任でおこなうものです。
- 反論歓迎。
1回戦Dグループ
冒頭を読むかぎり、ここは良い意味でも悪い意味でも問答無用で矢部喬さん。メチャクチャな想像力(褒め言葉)だけど、音楽的センスのある文章でとてもテンポが良い。教養もある。逆ソローキン風の掌篇。
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— 凍結の批評者、羊谷知嘉 (@ChikaHitujiya) September 30, 2019
たとえば、格好わるいと思っていたものがいくつかある。
ひとつにはやたらと怖がること。おばけとか、飛んでくる虫とか。叱られただけでも泣いてしまうのにも腹がたった。あとは大声を出されること。うるさいし、そもそもデリカシーに欠ける。それに手をつながれること。名前をちゃん付けで呼ばれることや、誰かれ構わず頼みごとをすること。
via. ブンゲイファイトクラブ1回戦Dグループ
余計なことは書かずに淡々といこう。
斉藤優のこの作品の評価を率直にいうと冒頭引用部分だけで読むのをやめたーーとまあ、こんなことを書かなければプチ炎上もなかったわけだが、読み進めることができなかったことはどう控えめな言い方をしても初読時の立派な評価=批評ではないだろうか?
だいたい、ブンゲイファイトクラブの中心界隈では、批評はやれ新しい読み方を提示する、やれ新しい意味を見つけるものと思われているらしいが(あくまで、らしい)、僕自身はこの批評=解釈とする見方はかなり怪しいと思っている。
というのも、もし本当にそうなら作品の出来が良いものにも悪いものにも何にでも新しい意味は付け加えられるし、究極的にいえばサルに描かせた線の羅列にだって新しい読み方を自由にでっちあげることができる。
なにより、その批評の正当性を検証するものがない――だから、フリースタイルラップバトルのように格好良さげなことをそれっぽいカタカナ語で言ったもん勝ちになりやすい。
この批評観で置き去りにされているのは作品自体の価値だ。
だから僕は、作品が何なのかではなくどうなのかに注目する。
考えてみてほしい、ワインの批評家の仕事はその味覚や風味に新しい意味を見出すことだろうか、それがどうなのかという分析から価値を判断するのが仕事ではないだろうか。
斉藤優の作品に話をもどすと、まず、その文章技術はある意味で完成されている。
というのも、ディテールを書かない、あるいは書けないことが結果として語りの醸す愛らしいふんわり感を演出し、好き嫌いが分かれるもののたしかに作品の大きな魅力といえなくもないからだ。
たとえば、「格好わるい」ものとして挙げられた「大声を出されることだが」、続きのひと文を踏まえると、この部分の正確な表現は「他人が大声を出すこと」か「自分が大声を出させてしまうこと」かのどちらかで、控えめにいっても文の意味は結構違うが、なんとなーくのうちに次の文に流れてしまう。
同様に「誰かれかまわず頼みごとをすること」も、自分が思わずやってしまうその性格を指すのか、他者全般、あるいは具体的なだれかのことかがいっさい不明で、結局続く1行で「そんなことを思いながら……(中略)」とまとめられて現在時の語り手の状況に話が移ってしまう。
具体的なエピソードとしてではなく語り手による語り手の説明としては致命的に言葉足らずで、それが書き手の意図によるにせよそうでないにせよ、読み手を作品に入りこませるというよりはなんとなーくの甘い煙に巻いてしまう。
この文体の控えめにいえば書き手の癖というべきものはその後も、たとえば1人称にしてはやけに今いる建物の浸水状況に詳しい語り手の特に位置関係が曖昧で、廊下にある明かりのスイッチを探りあてたとおもったらいつのまにか女子トイレのなかで未知の生物に驚いていたりとやっぱりなんとなーくの雰囲気重視で物語は進んでいく。
だから、この文体のぼやけた感じが好きなひとはなんとなーく読んでなんとなーく読み終わればそれで良い思う、適当な解釈をヘタにはさまずに。
ただ、僕にはそれが作家の拙さであり致命的欠陥にしか映らなかったので芸術的には全く評価できないというだけの話――もちろん好意的に読み進めることも。
桜座でライブがある。
開始時間は午後七時半だった。午後五時半までに野暮用を済ませ、ざっとシャワーを浴びてから、家で飲みだした。
桜座に限るわけではないが、素面でライブに行くことはない。一杯やって、気持ちをリラックスさせてから出かける。
via. ブンゲイファイトクラブ1回戦Dグループ
タイトルに「その一」とあるということは続きがあるのだろう、少なくとも作者の手許や脳内にはなかったとしても作品世界ではこの日記の続きを読者に予期させる。
おもえば、ブンゲイファイトクラブの参加作品にはやけにタイトルが残念なものが多かった――僕の価値判断を交えてほしくないなら「淡白」と言い換えても良い。
僕が高く評価したAグループの金子玲介(「アボカド」)や、Bグループの雛倉さりえ(「飼育」)もその例外ではない。
この単語縛りが創作クラスタの流行りなのか日本文学界のスタンダードなのか僕には判断できないが、どうせおなじやり方なら、フレンチやちょっと値の張るイタリアンのように「茄子・マグロ・カルダモン」のように複数単語を並べた方がまだ読者への訴求力は増していたはずだ――やりようによってはタイトルが詩にもなる。
また、僕自身も正直ここまで炎上して悪評を広めるぐらいなら、全作品タイトル批評・本文はいっさい読みません!ぐらい尖りがあってラクなことをすればよかった、本当にこれだけは後悔している、まあ、今からでも遅くはないのかもしれないけれど。
飯野文彦の「甲府日記 その一」は魅力的なタイトルだろうか。
もちろん僕はそうは思わないが、このタイトルの話をする前に基本的な評価をカンタンに書いておく。
この作品は率直にいうと最後までおもしろく読めた――ただし、作家の実際の言葉を無視し、手前勝手な映像監督として物語を脳内展開させていくならば。
初期コーエン兄弟の『ビッグ・リボウスキー』のような摩訶不思議系コメディ調なら相性も良さそうだ。
とはいえ、それが読み方のひとつであったとしても当該作品はあくまで文芸作品であり言語表現なので、自分が愉しむことではなく、作品の価値を判じること、すなわち、批評を考えるなら、映像作品の原作としてどんなポテンシャルをもっていようとも言語芸術として読んで評価すべきだろう。
言語表現として観た場合、この作品は冒頭からあまりにディテールが薄過ぎる――だから面白く読めるかどうかが読者の脳内補完いかんによってしまう。
たとえば、作品冒頭、大事なことだから繰り返すけどもだれもが読む作品冒頭、主人公の飲ん兵衛が午後5時半までに済ませた「野暮用」とはなんだったのだろう?
重箱の隅に難癖を付けているように思えるかもしれないがこう考えるとわかりやすい――ダメ人間繋がりでいうなら「愚図で無能な間抜け」の植川なら野暮用のひとことで済ませただろうか。
たぶん、違う。
植川ならもう少し具体的なディテールを描くことで読者にその人物の人柄を詳細に伝え、主人公の読者のなかで結ばれる人物像にもっと膨らみをもたせていたはずだ。
野暮用を済ますと言葉でいえばカンタンだが、実際には具体的な何かを具体的な行為を通して終わらせるのであって、その何をどうしたというたった1、2行の描き方の巧拙の差がいわゆる登場人物が「生きている」かどうかの明暗にあらわれる。
作者の飯野はこの点で劣るせいか、主要登場人物がたったひとりの割にそのひととなりがあまりよく掴めなかった読者は僕だけではないはずだ。
タイトルの話にもどろう。
結局、主人公が「蟻地獄」に呑まれたあとの世界はなんだったのか。
この読み方は千差万別だが、僕自身は脳卒中かなにかで危篤状態に陥ったのだろうと思った、正確にはそうあってほしい、僕だったらそれを匂わせる映像作品にしたいと強く思った。
最後の場面は、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の『Biutiful』のラストシーン、荒涼としていながらも美しく、どこか懐かしさを感じさせるイメージだ。
が、「甲府日記 その一」はその日記の続きを予期させるかぎり僕の解釈はおそらく作家の意図に沿わないものであり、僕個人の妄想に過ぎないのだろう。
タイトルは作品の顔だ。
潜在的読者が、あなたの社会的地位や本の装丁、サイトデザインを除けば最初に接する部分であり、鑑賞者のその後の読みを強く制限するためたしかに題付けはむずかしい。
が、だからこそ、檜舞台にあがる作品の顔にはそれが男であれ女であれ化粧ぐらいはさせてあげてほしいし、できることならほんの少しだけ微笑んでいてほしいと願わずにはいられない、ひとりでも多くの見知らぬ読者のために。
エリザベート、とこの学年では呼びならわしている。
その時折しも劇団四季の「エリザベート」が上演されるとかで、テレビで連日CMが流されていたのだった。この年は学校行事の芸術鑑賞が演劇に当たっており、まさかとは思うがエリザベートだったらやばー、見てえよなエリザベートー、と言い合っていたのだが当然のごとくというか、ごく普通の市民劇団の演劇を見ることになった。(中略)
via. ブンゲイファイトクラブ1回戦Dグループ
正井のこの作品も冒頭2段落目以降は読み進めることができなかった。
原因は明白で、書き出しからたった数行内に指示語のこそあど言葉があまりに多過ぎるため、参照先不明の指示語の意味をいちいち保留にしながら読み進めることがたったひと段落とはいえ大きな苦痛をともなったからだ。
この学年→どの学年だよ!
その時→いつだよ!
その年→だからいつだって!!
こんな調子だ。
何故こういう安易な書き方をしてしまうかというと、おそらく作者が自分の脳内にある作品世界を読者の視点や言葉そのものを無視して書き付けてしまうタイプだからだろう。
表現全般にいえることだが、鑑賞者の前には作品しかない。
正確にいうと、作品しかないという鑑賞上の理想状態を誠実な鑑賞者は心のうちで目指す