わかりやすい文章を書くのは奥が深い
文章のわかりやすさは極めて重要な要素だ。
読者に意味の通りやすい文章を書けるひとは基礎的な文章技術を身に付けているといっていい。
それでいて、文章をわかりやすくする努力はあなたが優れた書き手である限り原理的に終わらない。
先日公開した芥川龍之介の雑談動画で交わした通り、多くの要素を盛り込んだ作品はそれだけ複雑に、わかりづらくなるのだから。
本記事では、わかりやすい文章とは何か、どうすれば書けるのか、そして、何故わかりやすいだけの文章は価値が低いか解説しよう。
僕は今でこそ京都で半ぼっち生活を送っているが、学部生時代は文芸サークルに、院生時代は文芸同人誌を主宰し、学外の物書きとも広く関りをもっていた。
その経験からいうと、残念ながら学部生レベルの書き手のほとんどはこのレベル、日本語として意味が通りやすいかをクリアできていない。
もし、この記事を読んでいるあなたが書き手として文章の意味の通りやすさを気にしていなかったなら、以下に挙げる項目を意識して自分の文章を振り返ってみてほしい。
・主語が文脈から考えて不明瞭
主語をかならずしも明示する必要はないが、文脈からも主語を想像できない場合は問題がある。
・主語、述語、修飾語の関係性が不明瞭
小説にありがちだが、形容詞や形容動詞などを多く盛りこもうとしてセンステンスが長くなるあまり、文の基本的な関係が直観的にわかりづらくなっている。
・修飾、被修飾関係が不明瞭
上記と同じ理由で、修飾関係も不明瞭になりやすい。余談だが、意味が通りやすいひと文をどれだけ長く書けるかはそのひとの文章技術を計る良い物差しだ。
・専門用語の使い方が不適当
文中で使用する専門用語の意味を事前に自分で定義しなかったり、一般的な使われ方とは絶妙にずれて用いるのはいうまでもなく評論の文章にありがちだ。
さて、日本語としての意味の通りやすさはいうまでもなく必須級の性質で、そこにデメリットは存在しない。
前述の4点はそのなかでも必須中の必須なものだが、受験期に小論文の書き方を教わったり大学院生として論文指導を受けたことがあるひとは僕が接続詞の使い方に触れなかったことに疑問を思ったに違いない。
たしかに接続詞の使い方は重要だ。
だが、だれも指摘しないことだが、接続詞が丁寧でかつ頻繁に使われた文章は批評的にみればマイナス要素を含んでいる。

via. 文章の編み方
順接、逆接、並列、転換、例示、結論――。
高校、大学受験をそこそこ頑張ったひとなら評論文の論旨をカンタンに追うために接続詞の基本用法を覚えさせられただろう。
たしかに、接続詞の使い方は繰り返しになるが重要だ。
だが、デメリットもある。
読み書きの深さを制限することだ。
受験評論の恐ろしいところは、論理展開といくつかのキーワードを的確に拾えれば文章を飛ばしながらでもおおよその内容を把握できてしまえることだろう。
書き手としても、接続詞をあたまに置くだけで話を展開できるので紙幅もエネルギーも省略できて便利このうえない。
だからこそ、読み手は文章に深く入り込むことが難しくなり、接続詞に甘えた書き手は内容の力により論理を展開させることを怠る。
結局大事なのは使い様だ。
文章自体よりもその内容に重点がある場合は、筆者に力量がある限りでは接続詞を多用しないよう注意すれば問題ないが、読者がその物語世界に深く入り込むことを企図した小説はもちろん、芸術性に重きをおいた散文などではできるだけ接続詞を使わないに越したことはない。
トレーニングの一環として接続詞禁止の縛り執筆をしてみるのも良いだろう。

接続詞は論理展開と段落間の関係を明示するが、文章全体の目的、あるいは意味段落の関係などを明示するには事前の文章で読者にフレームを与えてあげる必要がある。
というのも、人間はそのままのものが何であるかを解釈する情報処理上の労力を節約するため、それが何であるかという枠組みを書き手側で事前にこしらえることが他人の解釈に介入する適切な方法だからだ。
他人の読みに介入するという場合に話をかぎっても、文章解釈のフレームに相当するものは数多くある。
活字のフォントや読書デバイスの質や装丁もそうだが、筆者の地位や名声、ウェヴやマスメディアでの前評判といった権威的なものが最たる例だろう。
書き手としてみた場合、適切なタイトル付けもそうだが、評論の場合ではまずこの文章の目的を最初に明示することが好ましい――この記事でいえば、わかりやすい文章が何であり、どうすれば書けて、何がその問題かという記事の狙いを示した冒頭部分がそれにあたる。
しかし、批評的にみた場合、いわばこの前置きは読解力が足りないひとや解釈に労力を割きたくないひと向けの余計な前口上でしかない。
当然、読めるひとにとっては無駄な段落に過ぎないので、文章の美しさを損なうだけでなく、読み飛ばしを読者に強いるせいで文章への集中と深い入りこみを妨げる。
したがって、論文指導を受けたことのある大学院生上がりの書き手に乱発しがちなこの前置きの設置は、小説などはもちろん、芸術性の高い散文などではまった不要であり、評論の類においても、文章自体よりもその内容にはるかな重きがある学術論文を除けば、各章ごとにせいぜい1個以下の分量に留めておくべきだろう。

ここまで挙げてきた3つはいずれも文章の形式的な部分に関わるものだったので、ひょっとしたら、何を書くべきかを知りたい性急なあなたの期待をはからずも裏切ってしまったかもしれない。
だが、安心してほしい、文章の内容に深く関わる部分も掘り下げておこう。
わかりやすい内容とはなんだろうか。
それは、読者や視聴者がすでに知っている、あるいはすでに親しんでいる内容だ。
前節で述べたとおり、人間はそれが何であるかという情報処理上の労力を惜しみたがる生き物なので、自分のなじみ深い範囲の外にあるだけで怒ったり無視したり排除したりする一方、一見なじみ深く思えるだけでふしぎと好意的な反応を示しやすい。
小説であれ、漫画であれ、アニメであれ、約束事やお決まりのパターンがどんなジャンルにもあるのはそのためだ。
したがって、読者にわかりやすい内容の文章を書くためには、読者の属する社会集団の一般的な通念にしたがった内容だけを、彼らがすでに親しんでいるやり方で表現する必要がある。
しかし、あなたがまともな書き手な限り、社会通念通りの内容を、あなたの考えや想いが結果として読者たちにすでに共有されていた場合は別として、あえ