ゲーム批評をアップデートする
学生時代から思索と文章に情熱を傾けてきて、今後もふくらまし続けるべきアイデアがようやく手許に残りはじめた。
最近だとまず、ゲームの課題構造論、そして、批評論のクロワッサン問題だ。
クロワッサン問題とは何か?
具体的には、あなたが今食べたクロワッサンの味わいはお店の質をどの程度保証するか、という問いであり、抽象的にはある属性ないし要素への評価をそれが属するより高次な「全体」への評価に横滑りさせる批評的誤謬を指している。
もちろん、大抵の場合は限られた要素への評価(クロワッサン)からより高次な全体(お店)への評価を導きださなくてはならず、そのため、批評は常に、個々の要素への自覚的な評価だけでなく、何をどの程度重視し、軽視するかという評者自身の直観的な価値秩序(センス)を前提とすることに問題の核心がある。
つまり、クロワッサンの質をお店の質に直結させる評者はそれ以外の要素を平然と無視できる単純浅薄な価値秩序に突き動かされており、反対に、ひとつの質の多様な要素に目配りできる評者には何の要素をどの程度重視すべきかというメタ批評的な問いが立ち現れる。
たとえば……。
- デジタルゲームにおける映像表現の美しさはどの程度重視すべきか
- 音楽におけるメロディの甘美さはどの程度重視すべきか
- 映像作品におけるプロットの卓抜さはどの程度重視すべきか
- 小説における言語表現の面白さはどの程度重視すべきか
この価値秩序を僕がセンスと呼ぶのは、対象の質の評価はかならず要素への個別的評価とそれらの直観的な順序付けによっており、評価自体は反省し、吟味し、改められても、その裏=地にある評価軸そのものの対象化は難しいからだ。
そのため、実践的な場面では、評価を成立させる価値秩序、つまりは暗に何をどの程度重視し、軽視し、無視しているかを考慮しなければ、限られた要素への愛着と無教養により対象全体への評価を酷く歪なものにさせかねない。
また、他の評者のセンスを理解し、他人との隔たりを呑むことで、不毛な宗教戦争に陥らずに客観的な根拠を示せる範囲の議論に留まれるだろう。
というのも、クロワッサンの味わいは他のお店の同一商品との比較により他人と客観的に議論できるが、その商品への評価をお店全体の評価としてどの程度重視するかは評者のセンスによるため、全体への評価はたとえ要素の個別的評価に合意がとれる2者間でも不確定な幅が生まれるからだ。
そもそもクロワッサン(単一商品)の批評にしても同じ原理で同様の幅が出るのだから(たとえば焼成による食感をどの程度重視すべきか)、より高次なものの評価ではより大きな幅が出て当然だろう。
……もっとも、洗練された趣味と野卑な趣味の質的な違いがあるように、経験と教養によるセンスの良し悪しもあるので、以前書いたように「みんな違ってみんな良い」わけではないが。
最愛の妻に見捨てられ、アルコール中毒&薬物中毒の完全記憶喪失に陥った抑鬱状態の中年オジサンが突然キレッキレのダンスを披露するこのシュールなシーンが何故にこうも強く胸を撃つのか。ちなみにこの古い教会を改装したレイヴハウスはおっさんが名付けたんだぜ、 #DiscoElysium って😭 pic.twitter.com/ZoyE65xzOh
— 凍結の批評者、羊谷知嘉 (@ChikaHitujiya) July 12, 2021
曲がりなりにも某有名飲食店で数年働いた身として思うのは、グルメ批評はかなり難しいということだ。
というのも、料理というフォーマットには、批評上、以前「翻訳」を例に書いたように考慮すべき「ノイズ」が多い。
自分自身の教養の寡多はもちろん、評者側のその日のコンディションもあれば、レシピではなく、実際の制作者の腕前とパフォーマン面の良し悪しもある。
また、自分の注文した料理がお店の良さや独創性を存分に発揮したものではなく、一般向けの看板商品として味を最大公約数的な単純さへ落とした無難なもので、お店というより高次なものを評価するには不適切なサンプルかもしれない(=クロワッサン問題)
パン屋の定番商品を複数のお店で食べ比べるという一見合理的な試みは、控えめにいっても各店舗の定番商品に対するアプローチの違いがわかるだけで、それ以上のこと、究極的にはどのお店がより優れているかといった高次なものへの評価と順位付けには少なくとも素朴なやり方では不適だ。
実際、サンドウィッチの美味しさやフィリングの組み合わせの独創性など、その店ならではの個性はこの方法では拾えず、固有の持ち味への評価を抜きにしてお店を評価することは傲慢とさえいえる。
つまり、批評は常にさまざまなコンディションと評者自身の教養や方法に化かされる危険性があり、特に誤謬が起きやすいのは部分に対する評価が全体への評価に無批判なまま滑り込むときだ。
あなただって、自分の性格のいちばん悪い面を採りあげられて人格全体を蛇蝎のごとく否定されたらたまらないだろう。
もちろん、この難しさは料理というフォーマットに限った話ではない。
2019年に彗星のごとく現れた za/um studio のCRPG作品『ディスコ・エリジウム』を覚えているだろうか。
完全版へのアップデート配信が今春に入ったものの、日本語訳の実装はいまだ未定なため忘れ去られた感もあるが、国外の識者や好事家によるこのジャンルのベストリストに常連入りするなど世界的にはすでに名作RPGの地歩を固めている。
僕個人は、リリース当初からこの作品のテキストと物語、ゲームデザインの文学性の傑出をきわめて高く評価してきたのはご承知のとおり。
ゲーム文学の新しい傑作、『ディスコ・エリジウム』批評的感想
今、海外のひと握りのゲームメディアやコアゲーマーがある新作PCゲームを絶賛している。 10月15日に steam で配信開始された za/um スタジオ開発のオープンワールドRPG『ディスコ・エリジウム』だ。
当然、街には腐乱死体に石を投げつけて遊んでいるヤク漬けの子どももいれば、レイシストはもちろん――思い出してほしい、主人公の相棒はキムという韓国系3世だ――共産主義者や港湾ビジネスを管理するグロバール企業の関係者といった多種多様なイデオロギーをもった人物が生活し、彼ら彼女らとの会話の選択を通してあなたは彼らと同じ人種差別主義者にも共産主義者にも、あるいは中道モラリストにもなれる。
要するに謎の見せ方と物語のディテールが段違いに深いのだ。
とはいえ、本作には油彩画風の独特な映像表現や政治的にきわめて複雑な(旧共産圏の歴史を反映した)世界観の構築、事件の真相を遅延させる卓越したミステリー、人間への文学的に深い洞察など称賛すべき要素も多いが、同時に賛否の分かれる部分もあるのが事実だ。
たとえば、本作の「混乱した」政治的アライメント(属性)。
主人公「ハリー」はさまざまな人物との会話選択を通して、コミュニスト、モラリスト、ファシスト、ウルトラリベラリストの4種類のポイントを獲得し、一定数を越えると独自のバフとデバフを得られる「思想」とクエストラインをアンロックできる。
ウルトラリベラリストは同種の会話選択を採るたびにお金を得られたり、ファシスト(マイルドな言い方ではトラディショナリスト)はお酒の摂取時のバフ効果を2倍にできたりなど、ビルド次第ではとても強力なため政治的アライメントを伸ばすのはほぼ必須といえる。
問題は、固有の「思想」のアンロックと定着は排他的関係になく、いわば兼任でき、ウルトラリベラリストでありながらコミュニストにもファシストにもモラリストにもある程度はなれることだ。
そのため、CRPG界隈の主要なアライメントシステムであるD&D系列のもの(2つの軸による9象限から1つを選択し、モラルチョイスにより遷移する)と比べると、本作のアライメントはRPGとしていささか自由過ぎる、つまりはロールプレイの意味と制約が薄い印象を受けてしまう。
これをどう考えるか?
大半のゲーム作品とは違い、本作は未解決事件を追いながら自身の失った記憶を取り戻して過去を受け容れるという二重構造を有するため、推理物でありながら内省的でかつ文学的、表現技法としてはマジックリアリズム的というゲーム作品では特殊な部類の物語に入る。
とりわけ、スキルチェックも兼ねた24人の自己内対話からは、主人公の内面がいかに矛盾し、混乱を極め、それゆえに天才的で、周囲からは酷く「困ったヤツ」として映るように造形されたことがうかがえる。
そのため、主人公「ハリー」の政治的立場が混乱し矛盾する(プレイヤー目線では自由過ぎる)ことは本作では問題にならず、むしろ表現としては高く評価できるだろう……実際の人間もある程度は同じ混乱と矛盾を抱えたものだ。
思うに真に問題なのは、主人公自身ではなく本作の良心といえるコンパニオンのキム・キツラギがこの自由度の犠牲になったことだ。
というのも、登場するコンパニオンは事実上キム独りなため、主人公の混乱と矛盾(プレイヤーの自由度)が際立てば際立つほど、そのモラルチョイスの複雑さに応じるコンパニオンの表現(あるいはインタラクティブ性)が飛躍的に難しくなるからだ。
実際、政治信条としては元モラリストで、今は所属の警察組織であるRCMの正しさを信じ、人種主義ないしナショナリズムには彼の出自から批判的、というのは良い落とし所だが、それでも主人公の混乱と矛盾に対して(また人種差別的態度に)あまりに中立的で、D&D風にいうなら「真なる中立」ではなく「善」の人物としてはやや不自然な印象を拭えない。
過去の経歴から趣味嗜好、普段の癖など、キムの細かい部分までよく造形されているぶん、主人公の政治的アライメントの混乱と複雑さに対応しきれないがゆえの「中立」が悪目立ちしてしまうのだろう。
そして、クロワッサン問題として観ると、この瑕疵を作品全体のなかでどの程度重く捉えるかというメタ批評的な問いが立ち上がる。
『ディスコ・エリジウム』を課題構造の観点から考えると、一定の時間制限下でハングドマン事件の真相と失った記憶の謎を解くことを大目的に、重要なスキルチェックをより多くクリアすることを目指して、会話選択やビルド、服の着せ替えを工夫する作品と要約できる。
そのため、スキルチェックのリロードを前提にするなら、本作には戦略や戦術という要素が薄いので基本的には物語や世界観の楽しみを重視したカジュアルな作品といえる……時間経過がほかの人物や自分自身との会話で進むという特殊な仕様からもたしかだろう。
厄介なのは、本作がゲーム作品としてはカジュアルであると同時に文学作品としてはきわめて本格的なことだ。
それにより、政治的アライメントの「混乱」とコンパニオンの問題は、カジュアルなゲームとしては些細な瑕疵にすぎないがテキストベースの作品としては相応の欠陥となり、本作をどういう作品と見做し、どのように向き合うかでその個別的評価の重さが変わってくる。
換言すると、客観的にはどういう客層を想定していると分析するか、主観的にはどういう作品を好むかで同じ欠点の意味と見え方が変わるのだ。
繰り返しになるが、『ディスコ・エリジウム』を僕自身はデジタルゲームの文学的傑作と呼ぶにふさわしい作品と高く評価している。
いちばんの理由は、混乱と矛盾を抱えた懊悩する人間像をゲームシステムと物語の双方に落とし込んだ文学的洞察と表現力だが、一方で、RPGのインタラクティブな物語としてはややお粗末な面があるのも認めている……ただ、後者の個別的評価よりも前者の方が全体的評価により大きなインパクトがあると価値付けているだけだ。
したがって、カジュアル層が本作のヴィジュアル表現や劇音楽、「ハリー」とキムのブロマンス的な関係性から本作を絶賛する気持ちも、コア層がゲーム性(課題構造)の単純さやテキストのインタラクティブ性の甘さから鼻白むのもよくわかるし、それらの個別的評価が間違っているとも思わない……その重みの付け方が僕とは異なるだけで。
というのも、プレイヤーキャラクターの造形を進化論的に掘り下げ、その複雑さによる人格的な混乱と矛盾をテキストとして表現するだけでなくゲームシステムにまで落とし込んだのはまさに本作の唯一無二の独自性であり、孤高の洞察と表現力の傑出というほかないからだ。
以前書いたように、2010年代後半のデジタルゲームはアートフォーマットとしてさまざまな隣接分野を飲み込んだように観える。
それは作品自体の高度化、複雑化を意味すると同時に、それらを相手取るゲーム批評の高難易度化も意味するだろう。
ハイブリッド化し、内包する要素が複雑な作品批評では、さまざまな個別的評価をまずフラットに捉えてから全体的評価に結び付けることで、価値秩序(センス)に神経を通し、クロワッサン問題の誤謬を回避しながら評価の「裏」を提示することがよりフェアではないか。
たしかに、この誤謬を犯すことで作品評価を単純化し、限られた個別的評価(バグが多い、キャラクターが可愛い、アクションが爽快など)を全体的評価に横滑りさせて「推す」なり「叩く」なりすれば強い快感をお手軽に得られる、が、それで今日のデジタルゲームの高度な発展の真に面白い部分を一端でもとらえられるだろうか。
思うに今必要なのはこの高度さと複雑さに対応した批評の方法論である。