集団暴走がなぜ思想的に止められないか
批評とは対象の内的な価値を評することだ。
解釈や紹介、解説といった意味的に隣接する言葉と比較すればそうとしかいいようがないが、以前別の記事や動画で書いたように今の日本社会では批評やレビューと銘打ちながらも似て非なるものが流通している。
その大きな要因をあえて挙げるなら、世の大多数が好き嫌いという主観を越えた物事の見方を知らないし認めもしないからだろう。
今のネット社会が、好きの押し売りと正義感の押し付けで繋がるお祭り的な共同体になっていることも大きそうだ。
批評・創作論シリーズは、ウェブ検索やSNSウケをいっさい気にせず今後の批評記事の参照先として僕の原理的洞察を書いている。
それが僕以外のだれのためになるかはわからないが、今回はもしあなたが批評的振舞いするならかならずぶつけられるであろう好き嫌い論者特有の論法の危険性について書く。
世間体のなかで批評的な振舞いをするには守るべき暗黙のルールがある。
たとえば、ある作品を面白くない、質が低いと感じたとしてもその作品を主語にしてはいけない――「私には合わなかった」なら語っても良い。
というのも、否定的な意見でもあくまで個人の “感想” でありその印象を受けた原因は自分にある体で語れば世間も許してくれるが、 “批評” や “分析” のように客観的な視座からの語りには世間は酷く敏感に反応し、「それは批評じゃなくて感想でしょ」「好き嫌いはひとそれぞれだから」とあなたの批評を主観的な意見の枠内に押し込めようとする。
彼ら彼女らは好きか嫌いかという素朴な評価軸しかもたないため、良いか悪いかという主観を越えた視座からの意見をいわば骨抜きにして傷付けられないようにし、また、主観を越えた高みに立たれることによる嫌悪感故にあなたを地に引き摺り下ろそうとする。
好きか嫌いかの評価軸しかもたない者にとっては良いか悪いかを語る者はどうもお高くとまった憎むべき存在に映るらしい。
念の為にいうと、好きか嫌いかと良いか悪いかはまったく別の評価軸であり、異なる極がひとつの対象のなかで両立することからもその事実は確かめられる。
たとえば、僕はフルーツケーキやチーズケーキのような甘酸っぱい系の味覚が嫌いというか苦手だが、優れた作り手によるものは当然ながら美味しく客観的には良いと判断できる。
反対に、スニッカーズやオレオのような甘さでゴリ押しするタイプのお菓子が大好きである面では評価するが、だからといって腕利きのパティシエによるベリー系チーズケーキより客観的に高く評価することはないだろう。
以前書いたように、批評には表と裏というべき方法と感覚の二重構造がある。
感覚の声をより深く細かく複雑なままに聴くことから潜在的批評がはじまる以上、好きか嫌いかというより本能的で感覚に強く訴える身体的反応が良いか悪いかという理性的な判断にまったく影響しないとは思わない。
だが、潜在的批評でもその大部なら経験的には好きか嫌いかという軸とは切り離して考えられるし、また、そうした懸念のために顕在的批評として他者から検証可能な比較などの方法を通して批評を表現することもできる。
要するに批評とは「私には合わなかった」ことの様相をより深く感じとることであり、それを他者に検証可能なかたちで表現することだといえる――世間はその意味ではより高度なことを嫌う。
好き嫌い論者のみんなちがってみんな良い論法を僕はかねてより消極的な相対主義と呼んできた。
というのも、彼ら彼女らの相対主義は既にある権威の欺瞞や恣意性を露わにするためではなく