Twitter で暴れるフェミニストたち
最近 “ツイフェミ” が暴れに暴れている。
ツイフェミというネット用語はもともと好きではなかったし使ってもこなかったが、彼女たちを “フェミニスト” と呼ぶのは男女平等の理念をまっとうに有しているマジメな学者や活動家に失礼なので便宜上この言葉を使う。
というのも、ツイフェミの他人の表現に対するかなり踏み込んだ暴れかたは日本社会の男女平等のあり方について中立ないし改革寄りの立場をとるひとたちをドン引きさせ、不必要な「敵」をたくさん作ることで結果的に自分たちの立場を悪くしているからだ。
もちろん、割を食うのはマジメなフェミニストであり日本社会の旧態依然とした制度や慣習に押し込まれている、あるいは今後そうなりうるわれわれ全員だ。
まあ、自分たちだけである種の宗教団体のようなユートピアをどこかに作る気なら仲間内の絆を閉鎖的に強めあうことも重要だが、異なる言語、習慣、価値観、歴史、個別的意見をもつ者たちと共に暮し、働き、交流し、情報共有していかざるをえない時代を今生きている以上、不必要に「敵」を作るのはあまり得策とはいえない。
日本社会の差別的な仕組みや慣習を変えたいと本気で思っているならなおさらだろう。
先月炎上したハフィントンポストの「私たちのフェミニズムをみんなで語ろう」と題したインタビュー企画第1弾の前編では、フェミニズムと日本社会における男女平等の実情や個人的な男女観などをゲストのひろゆきからヒアングしたものだが、案の定というべきか、彼の言葉尻のみを捉え、自分たちの教義に反する内容へ捻じ曲げた挙げ句、明確な根拠もなしに批判するといういわゆる侮辱や罵倒が業界の著名人からも含め大量に押寄せられることになった。
たとえその批判に多少の正当性があったとしても、侮蔑や罵倒は仲間内ではウケこそすれ、第三者からしたら安易に他人をバカにしたりコケにしたりする人間は当然ながら信用に値するようには映らない――なにより、同様の内輪ノリの行為で女性を貶めてきたのが「ミソジニー」にまみれた男性集団というものだろう。
ミイラ取りがミイラになるとはまさにこのことだ。
ツイフェミ論争はだいたいの場合で日本のサブカルコンテンツにおける表現の自由の問題とバッティングする――最近では日本赤十字社が献血を呼び掛けるために作成した「宇崎ちゃん」とのコラボポスターや、沼津市の西浦みかん大使に任命された高海千歌のスタンドパネルがそうだ。
この件に関する僕の立場を明確にしておきたい。
まず、どちらのイラストも性器や性交渉といった直截的な表現ではないので「ポルノ」とはいえないが、批評的に観た場合、宇崎ちゃんであれば腹部周辺の奇妙にタイトな服の描き方による乳房の強調や目許の淡い桃色の差し方、高海千歌であればやはり批判を浴びているスカート越しの奇妙なY字ラインとこれまた同様の目許の表現などから「ポルノ風」の扇情的なイラストといわざるをえない。
もちろんこれらが特別にそうというわけではなく、たんに日本のサブカル的な女性表現のイラストコードを踏まえて描かれただけに過ぎないはずだ――特に宇崎ちゃんポスターは特別の描き下ろしというわけではなく『宇崎ちゃんは遊びたい』3巻の表紙をそのままもってきただけという。
したがって、僕自身はそもそも論として日本のサブカルコンテンツでは扇情的な表現が当たり前に使われていると観ており、その意味において、両者の「未成年風」のイラストを性的搾取とまでいえるかは議論の余地があるが、少なくともそう批判することには相応の正当性があるように思う。
とはいえ、大前提なのは「サブカル」とはある程度はそういうものだということだ。
ファインアートを代表とするハイカルチャーが伝統的には教養ある上位階級の趣味であるのに対し、特別な教養や高度な教育を前提としない大衆向けの「サブカル」は当然ながらだれにでもわかる刺激の感受性に、つまりはエロやグロに訴えがちになる――たとえるならば「サブカル」はみんな大好きストロングゼロになりやすい。
問題を複雑にしているのは、萌えコンテンツとされる女性イラストにそうした扇情的な表現コードが公然と指摘及び意識されないまま埋め込まれていることだろう。
萌えコンテンツの魅力は当然ながらそのコードだけではないため、いわゆる「オタク」という語で(10年以上も前の古さだが)イメージされる若い男性だけではなく少なくない数の女性もまたファンやクリエイターとしてエコシステムを形成している。
しかし、男性嫌悪を剥き出しにして過去の怨恨を晴らさんとするツイフェミに問題の切り分けができるはずもなく、扇情的な表現コード自体を批判すれば済むところを当該のエコシステム全体を侮蔑し罵倒するため感情的な争いに陥り、不必要な「敵」を作り、どちらの陣営にも与さないひとからは「まーたフェミがなんかいってるよ」と冷めた眼で視られるようになる。
たとえば、社会学者の牟田和恵は西浦みかんのラブライブ!コラボに「家族向け、食料品の買い物するお母さん向けに考えないのはなぜ?オタクがみかん箱買いするとでも?」と疑義を呈しているが、余計なお世話どころか「オタク」を男性でかつパートナーや子どものいない独身者、あるいは家庭はあっても家事に一切関与しない男性と暗に決め付けており、社会学者として極めて悪質だ。
また、この思い込みを裏返すと見えてくる「女性≒母親≒主婦」という臆見と正面から闘ってきたのがフェミニストの歴史ではないかと思うが、牟田和恵のタイムラインを遡る限りこの発言の撤回や各所方面に対する謝罪の形跡はみられない。
今の時代、世のオタクは独身男性に限らず、家族向けの買い物をするのも「お母さん」だけではないので、いかにこのフェミニストの皮を被った社会学者がナンセンスな侮辱でおのれの無知と偏見を晒しているかよくわかるだろう。
牟田和恵は恥を知った方が良い、女の敵は女とはよくいったものだ。
ホントそうですよね。だいたい、ミカンのアピールになぜあの絵なのかフシギ。赤十字の宇崎ちゃんもひどかったがまだあれは若い男性層に献血の呼びかけを、という意図は理解できた。でもなんでミカンで?家族向け、食料品の買い物するお母さん向けに考えないのはなぜ?オタクがミカン箱買いするとでも? https://t.co/dif6k1MLdm
— 牟田和恵 (@peureka) February 16, 2020
なんにせよ、僕自身は、日本の萌えコンテンツにおける扇情的な表現コードとそれを踏襲したイラストを公共空間で使用する下品さや低俗さへの批評と批判がもっとも穏当な落としどころだと考える――それが自分たちのブランドイメージを傷付けると思うなら謝罪して修正すればいいし、問題ないと思うなら黙殺を貫けばいい。
ネット論壇や論争にほとんど興味をもたない僕がツイフェミ/オタク論争について記事を書こうと思った理由が実はここにある。
普段から批評を書いている身からすると、不愉快という感情がなぜ修整なり撤去なりといった現実的な対応の要求に直結し、そのあいだにあるであろう「下品」「低俗」といった否定寄りの批判と議論が飛び越されているかが不思議でならない。
たとえば、僕自身は赤十字社の献血ポスターにも西浦みかんのスタンドパネルのイラストにも正直不快感を覚えるし、批評的にいえば下品で、それらがおおっぴらにまかり通る今の日本文化は低俗だとすら思う。
しかし、世にはその下品さが好きなひともとても多く、僕自身の見方が間違っている可能性もゼロではない――だからあくまでこのイラストは下品だと僕個人の責任の下で評するに留め、不快感を催したから、低俗な表現だからと、女性蔑視だの性的搾取だのと主語と話題をやたらと大きくして修整なり撤去なりを求めることまではしない。
もう少し踏み込むとしても、日本赤十字社やJAなんすんといった公共性のある組織団体がセクシュアルなコードを使用したイラストを広告利用した品の無さを批判する程度だろう。
つまり、僕が疑問に思うのは批評の不在であり価値の闘争のなさだ――そして、この構図は僕にはひじょうに馴染み深いものでもある。
昨年『レッド・デッド・リデンプション2』の検索上位にある優れた国内レビューを分析し、批評やレビューと銘打ちながらも実際の文章は「感想」「紹介」「解説」「解釈」の混ぜあわせであり、個の名の下での価値判断という意味での「批評」とは程遠いことをあきらかにした。
日本語のウェブ上でよく書けており、よく読まれているゲーム批評ですら突き詰めれば「快/不快」の個人的な感想とだれもが頷く内容なり背景なりの客観的記述でしかなく、他人と議論しうる根拠を示した上での良し悪しの提示という批評的要素がないのだ。
というのも、個人的感想、近年のネットスラングに置き換えれば「お気持ち表明」は議論の対象になりえず、内容の記述や歴史的背景の解説もそれ自体が価値論的な解釈行為ではあるが原則として対象作品の価値判断ではないからで、結果、あたりさわりのないお気持ちばかりが累積し、だれが正しそうでどの意見が根拠薄弱そうかもみえない言論のごみの山と化す。
ツイフェミ/オタク論争にこれを敷衍すると、イラストの良し悪しを根拠を示して議論するという当たり前の批評(正確には攻撃側の論証)がないせいでツイフェミもオタクもお気持ち表明の泥仕合に陥り、同時に、表現の自由を規制するしないという具体性を欠いたやはりお気持ちベースの主張の応酬でなんの議論も積み重ならないとなるだろうか。
もちろん、後者はおのれの実存を賭けた終わりなき怨恨殺人が目的なため、はるかに過激で、醜い、威圧的な決め付けの暴力が、正義の仮面を被った無名の弱者の手によってなされるのではあるが。
この問題の厄介なところは何がどう転んでもだれも幸せになれないことだろう。
どの局面でも勝ち目の薄い防衛戦を強いられている擁護側はいわずもがな、強襲を繰り返すツイフェミ側も西浦みかんのパネル撤去の件のように仮に自分たちの気に入らないイラスト表現を撤回させられたところで、日本社会の現実にある苦しみ、性犯罪・性暴力にはじまり、企業内の差別的な慣習、女性蔑視や前述の牟田和恵的ステレオタイプの押し付けなどにその表現の撤去が歯止めを効かせられるわけではない、萌えコンテンツを陰に追いやることで性被害を減らせる根拠も今のところはない。
怨恨を晴らそうとすればするほど「敵」が増え、中立的な立場のひとたちからは遠巻きにされ、情報的に孤立し、エコーチェンバー現象が生じてますます認知が歪む、それでいて現実の脅威を潰せているわけでもないのでまた別の気に入らない表現を見掛けては(以下ループ)……。
結局、ツイフェミにとっての幸せの実現は自分たちだけで完結するムラと宗教を興すことなのだろう。
また、表現規制の明確なガイドラインがないなかで突発的な強襲が繰り返されている今の状況下では発信側が過度で無意味な自粛や自主規制をしてしまいかねず、オタクにとってもたんにひとつのイラスト表現が炎上して撤去されたりする以上に事態はかなり分が悪い――そもそも彼ら彼女らがいくら自分たちの好きな萌えコンテンツを守りきったところで特に得るものがあるわけではないのだ。
僕からすると、批評が過去に忘れられ、好きが好きを呼び好きを推しあうことで先鋭化した扇情的な表現コードも問題あるし、弱者の仮面を被り正義を押し付けることで懲罰の快楽に集団で耽ろうとするのも当然ながら問題がある。
だが、男性/女性、加害者/被害者、オタク/フェミニストという単純な2分法で世界を雑に切り分けていることにツイフェミの暴論の根本的な原因があるように、実のところこの不毛で人騒がせな応酬は批評が死に、概念としてすら存在せず、好きと正義を推し/押し付けあう空虚な時代の耳目を集めるひとつの症状に過ぎないのだろう、そんな気がしてならない。