プレイングの意外な線の細さ
どうも、ゲーム有識者が推薦するイマドキの作品勝手に第1位の『Outer Wilds』をプレイしてやや困惑気味の僕です。
先日Twitterである投票を作りました。
ずばり、デジタルゲームのパズル要素をみんなは日頃どのように感じているか、です。
約90人の投票によると、好き嫌いがハッキリした層が双方ともに1、2割程度いる一方で、6割の過半数を占める多数派は条件付きなら好き/許容し、全体的な好悪の傾向としては肯定的な感情を抱いている方が多いようでした。
【緩募】デジタルゲームのパズル要素が……
— 凍結の批評者、羊谷知嘉 (@ChikaHitujiya) February 15, 2021
パズル要素に僕が疑問を覚えた事の発端は新作サイコホラー系ADV『The Medium』の批評を書いていたときです。
そこで、ソリッドとリキッドな課題という概念ツールでどのような課題構造を強要/許容しているかを分析し、その作品が実のところパズルを解くことで物語を先に進めるだけで、プレイヤーの自発的な課題設定を想定したデザインではないことを明かしたのですが、その原稿の息抜きに『Outer Wilds』を勉強用にプレイしてみたら、昨年の英国アカデミー賞のゲーム部門最優秀賞にも選ばれた本作もまた同じ構造なことに気付いたのです。
もちろん、『Outer Wilds』がいくつかの点で優れているのは確かですが、その線の細い構造をわざわざ激賞し、傑作と謳い、他人に勧めるほどの作品には思えなかったのですね。
以下では、広義のゲームを課題とその試行錯誤と捉えなおすことの根拠からはじめ、ソリッドとリキッドの課題構造の整理、理念的な4類型をみながら『Outer Wilds』を分析しますが、全体的な批評を普段のようには書いていません。
その理由は、「あ、この作品はこういうゲームなんだな」と腑に落ちたところでプレイを続けるに足る魅力が感じられず、中盤程度で止めてしまったのと、本記事の狙いがあくまでソリッドとリキッドの課題構造という概念を具体的に深めることにあるからです。
デジタルゲームに限らず、冒頭が良くない(特に退屈な)作品は何かしらの問題があるという批評的な立場を僕はとりますが、まあ、それはまた別の話です。
まず、今後のためにこの概念ツールをもう少し丁寧に整理します。
ゲーム(と、僕が端的にいう場合はデジタルゲームに留まらず、アナログな道具や身体、自然環境を使うものやフィジカル/マインド・スポーツも含みます)には課題とその試行錯誤が必要だという前提からはじめましょう。
もちろん、ゲーム論的にはその根本にある遊戯を考えねばならず、ごっこ遊びのように課題がないものもそこにはありますが、さしあたり、ゲームは遊戯と異なり、そのルールを整備することでより多くの人間が参加できるようにしたものだと僕の見解を述べるに留めますーーもし、いかなる意味でも課題のないゲームをご存知であれば教えてください。
次に、ゲームの課題とは何らかの意味で打ち勝つことです。
対戦相手に勝つこと、記録を越えること、一定期間生き延びること、達成条件を満たして先に進むことなどですね。
哺乳類としての人類はきわめて長い期間をほかの同性より優れることを目指して生きてきましたーー正確には帰属集団でより優れることを通して己の子孫を形成し、遺伝子を残してきたので、自身の競争順位と優劣の関係には敏感にならざるをえないのです。
特にオスの場合、精力の尽きるまで生殖機会を増やせるという都合上、数撃ちゃ当たるといったらなんですが、可能なかぎり多くのメスと可能なかぎり多く交わることがより多くの子孫を残すための最も効率的な生殖戦略であり、自身の社会的地位がその(個体によっては生殖機会を全くもたせないほど巨大な)ボトルネックになるため、帰属集団内での競走順位が遺伝子的にはきわめて重要です。
また、メスの場合は妊娠と養育期間があるため生理的な初期投資が高く、オスの五月雨式とは異なりより多くの資産と高い地位を限られた子に残すことが最も強力な生殖戦略になるため、自身の立場のみならず、配偶者としてのオスの優秀さ、誠実さ、社会的地位の高さにも敏感にならざるをえません。
つまり、自身をより磨き、同性間競争でほかの個体により打ち勝つことでその優秀さを帰属集団に示し、その誇示の強さで配偶者を選び、あるいは選択され、可能な限りより多くの子孫により多くの資産とより高い地位を引き継いで拡がった遺伝子の先に今のわれわれはあるのですね。
当然、課題に打ち勝ち、他者より優れ、その優秀さを帰属集団に誇ることにわれわれは「快感」を覚えてきたはずで(でないと、あえて苦痛と危険を冒すに足る理由がありません)、僕の仮説ですがゲームとは、課題解決の観点からみれば、性淘汰に磨かれてきた集団的な競争本能と生物由来の快感回路を転用した文明社会特有の創作物なのです。
ゲームのプレイ中、被験者全員の脳で、多くの領域が活性化した。視覚処理、視覚的空間認知、運動機能、感覚運動連合などに関連する部位だ。これらはこの課題からすれば活性化して当然の部位だが、面白いことに、側坐核や扁桃体、眼窩前頭皮質といった内側前脳快感回路の中心部でも活性化が見られた。(中略)つまり、ビデオゲームというまったく自然とかけ離れていて本来的な報酬性など一切ない行動が、被験者全員で快感回路をある程度活性化したということである。
ゲームという人類の発明が優れているのはまさしくこれらの本能を模擬的な遊びの形式に転用したことにあります。
というのも、以前『Apex Legends』の記事で赤裸々に書いたように、純粋なゲームでは課題解決における失敗が身体や社会的立場を危うくさせることはなく、幾度の挑戦と試行錯誤が何の条件もなく許されており、自己効力感と問題解決能力を養うのにこれ以上の恰好なものはおそらく創作・表現行為のほかにないからです
さて、『The Medium』の批評でも書いたのはデジタルゲームの課題をソリッドとリキッドに分けることでした。
ソリッドな課題とは先程も例示したように、対戦相手に勝つこと、記録を越えること、一定期間生き延びること、パズルを解くこと、達成条件を満たすことなどで、ゲームデザインが事前に設定し、プレイの目的そのものとなるため、大抵の場合は解決が避けられない課題です。
一方のリキッドな課題とは、作品のクリア条件に含まれていないタイムアタックや自由な建築、ロールプレイ、コンボの開発、特定の武器や防具にのみ使用を制限した縛りプレイなど、ゲームデザインが用意したツールやそれ自体を時に悪用?しながらプレイヤーが自主的に課題設定して試行錯誤するものです。
注意が必要なのは、両者の関係が二元論ではないこと。
つまり、どんな壮麗な建築や奇抜なビルド、特異なプレイングも最終的にはその作品のソリッドな課題解決を目指し、きわめて独特なやり方でも一応は課題を解決するからこそひとは大きな称賛を笑いや驚きとともに送るのであって、ソリッドな課題解決を抜きにリキッドな課題達成は考えられません。
そのため、リキッドな課題とは基本的に、ソリッドな課題解決の課程でのそのやり方の自主的な課題設定といえます。
ソリッドな課題は常にゲームデザインが要所要所で規定の結果を求めるのに対し、リキッドな課題はその結果(ソリッドな課題達成)に至るまでの過程におけるプレイヤーの自発的な課題設定と試行錯誤であり、前者の達成がある種の前提条件として後者の成否をチェックする関係にある
両課題の違いとその関係を明確にしたところでこの観点から理念的な類型が考えられます。
- ソリッドな課題のみの単構造で、プレイヤーの自主的な課題設定が想定されていないもの
- ソリッドな課題と、プレイヤーの自主的な課題設定の余地によるリキッドな課題とのデュアル構造
- ソリッドな課題のみの単構造だが、大きな課題の下に複数の小さなソリッドな課題を用意された構造
- ソリッドな課題から自立したリキッドな課題設定の余地だけの単構造
『The Medium』の批評で書いたように、①の単構造は課題解決の面白さとドラマ的側面の魅力に依存した線の細い作品です。
もっとも、タイムアタックの創造性はゲームデザインの隙間に割って入り、自由な課題設定の余地を無理やりこじ開けるのでリキッドな課題が厳密な意味で何も成立しえない作品はおそらくないのですが。
興味深いのは、オープンワールドで自由な探索と課題解決に挑む『Outer Wilds』も一見すると②のデュアル構造に思えますが、実のところ、プレイヤーに許されているのは何をどういう順番で定められた課題解決をするかの自由なため、ゲームデザインとしては(タイムアタックの創造性を除けば)①の課題解決とドラマ的側面の限られた魅力に依拠した単構造だということ。
そして、そのプレイングの線の細さにも関わらず、世の有識者から高く評価された理由は思うに、レベルデザインを利用したパズルのダイミックさ(ソリッドな課題の魅力)、ローポリの映像表現と素朴な楽器演奏に醸される昔懐しい「エモさ」(映像・音楽表現、というよりはその雰囲気)、SF的意匠を凝らした物語、そして、22分間のタイムループという時間制限付きの探索により③の課題構造にありがちな間延びした展開を拒否した新鮮さです。
③の課題構造とは、メインクエストの下にオプショナルなサブクエストやアクティビティ、ミニゲームをふんだんに盛り込んだ超大作RPGなどがそうで、おそらく大多数のプレイヤーがすでに食傷気味のものです。
たとえば、昨年末の『Cyberpunk 2077』を僕はある理由でとても高く評価しますが、課題構造の観点からみると、②のデュアル構造によるリキッドなロールプレイを事前に期待させながらも実際には③の単構造だったことにハードコア寄りのユーザーから支持をあまり得られなかった根拠があります。
換言すれば、プレイヤーの自由な課題設定の余地ではなく、たんに飽きさせないがための無数のソリッドな課題でその空白を埋めていたのですね。
『Outer Wilds』はそれに対し、個々のソリッドな課題の攻略順序の自由を作ると同時に短い時間制限でプレイヤーが緊張感なく道草を食い続けることをゲームデザインから明確に拒否し、メインストリームのRPG作品にありがちな課題構造のカウンターとして新鮮に機能したと考えられます。
もっとも、その意図的な単構造がどこまで面白いのか、正確にいうとパズルゲームとしてのジャンル的な良さをどこまで越えられているかが僕は疑問なのですが。
というのも、課題解構造の観点ではやはり『Outer Wilds』はプレイングの線が細いことに変わりなく、頼みの綱であるソリッドな課題解決の魅力、本作の場合では大掛かりなパズルを解くことに愉しさを見出せるプレイヤーは僕の投票を参考にするなら全体の2割前後と数が少ないうえ、大多数はパズル要素を条件付きでのみ肯定/中立的に受け容れているのですから。
また、昔懐かしい印象をあたえる素朴な劇音楽や薄い色彩感覚が特徴の映像表現は一般的には嫌われることがないものの、僕にとっては全くの退屈そのもので、プレイヤーの探索行動をベースにした物語は一定の評価はできるもののそれだけを課題解決の魅力とするにはフックがあまりに弱すぎます。
結局、知識や経験があるからこそわかるパズルの理知的な革新性と意外性、その面白さ、毛嫌いするひとがいない素朴でセンチメンタルな劇音楽と映像表現、一定度の教養を前提とする意匠、そして、構造の単純さ、あるいは説明のしやすさ――それらが一般にゲーム有識者と考えられているひとたちが揃って『Outer Wilds』を高く評価するゆえんでしょう。
ちなみに、以上の分析でふれられなかった④のリキッドの課題の単構造は建築要素のいわゆるクリエイティブモードなどを念頭においています。
いかがだったでしょうか。
課題構造という考え方とその類型はまだまだ整備と拡張を必要とする概念ツールですが、これを使うことで一見関連性のないさまざまなゲームを同じ俎上に載せてそれらの問題や強み、共通点などを比較分析することができます。
批評、僕がいう場合には「解釈」や「推し」ではなく「価値評価」としての批評ですが、批評には潜在的にも顕在的にも比較のプロセスが方法として欠かせないため、自分の想いや感動、愛着を手放し、ある観点から複数のゲームを同一線上に並べられることの意味は見た目以上に深いのです。
もちろんその観点の射程は深ければ深いほどより有効範囲を拡げられるので、いわゆるビデオゲームの常識的な枠をはるかに掘り下げていく根拠付けが必要なのですが。
それにしても『Outer Wilds』はそこまで面白い傑作なんですかね?
僕も Not for me のひとことで済ませれば楽なのですが、自分には何故か合わなかったなと悩むひとがこの記事を読んで腑に落ちるところがあれば書き手冥利に尽きます。
SNS全盛の時代にあえて否定的な内容も煽りを抜きに分析して書くことの社会的意義は、どこかのだれかの感性の孤独に寄り添い、コンテンツを片っ端からたいらげていくSNSの反響音で自身の心の声を塗り潰してしまわせないことにあるのですから。