ネタバレあり
漫画=コミックは人間の脳をもっとも「ハック」しやすいアートフォーマットかもしれない。
たみふるの『付き合ってあげてもいいかな』は、2018年から「裏サンデー」と「マンガワン」で連載する女性の同性愛関係をテーマにした恋愛漫画。「百合」というジャンル名をあえて使わないのは本作が少女の淡く未成熟な想いの結ぼれという「百合」の一般的なイメージにはそぐわないから。
主人公は、黒髪ショートヘアで容姿は良いがなにかと不器用な犬塚みわと、あかるい長髪で陽気なコミュニケーション強者の猿渡冴子。
軽音サークルの新歓コンパの帰りに酔いと性欲にまかせて冴子が同性愛者なことをカムアウトしたのをきっかけに、交際経験はないものの、もともと彼女がほしく、「友達として、ふつうに」冴子を好きだったみわは「せっかくだから、あたしたち付き合ってみない」という冴子からの提案を受け容れるかたちで交際をはじめる。
「付き合ってあげてもいいかな」という洒脱なタイトルが示すように、大学1年生のふたりは話数的、作中時間的にあっさりと付き合いだし、すれ違っては縺れ、半年ほどでことなる途を歩みだす。そこに、読者の恋愛への夢や憧れを満たす甘さはなく、どこまでもリアリスティックな表現が織り重なる。
あと、現実の恋愛ってわりと打算や妥協にまみれてることが多くないですか? そういう恋愛が描かれた恋愛も少なくない? なんでだろう? 楽しくないから…?
via. 『付き合ってあげてもいいかな(1)』
とはいえ、恋愛の嫌な面、惨めな面をことさらにあげつらうのではなく、直視しがたい「ジメッ…とした部分」も含めて恋愛を(あるいは、恋愛しないというあり方も)まるごと描きだすところに本作の魅力がある。
「付き合ってあげてもいいかな」というタイトルには、「とりあえず付き合っちゃってもOKOK!」「自分の恋愛は美しくない…?そんなことない!OKOK!」…みたいな気持ちを込めています。
via. 『付き合ってあげてもいいかな(1)』
世の破局の原因の多くは、皮肉にも、世界の中心が「あなた」だと狂おしく感じられてやまないことだ。
もちろん現実はそうではないため、「あなた」を大事にしたい、「あなた」と一緒にいたいという愛着が強まれば強まるほど、冴子は嫉妬心、みわは自己嫌悪に酷く苦しみ、相手を熱心に想うからこそその醜さを隠し、相手を裏切り、傷付け、関係をダメにする恋のジレンマに陥る。
たみふるの見事な筆致はその離別の過程を丹念に描き、ちいさな沈黙、ちいさなゆき違いが破局へと導く積みかさねを泥のような重さで読者に追体験させるが、同様に、ふたりの新しい恋のはじまりもまた僕らが経験してきたようにありふれており、ドラマチックで、辛辣な別れの場面とおなじ糸でありながら異なる模様を美しく描きだす。
新しい恋もまた、ふたりが別れざるをえなかったのとおなじ重さで力強く育ち、蜜月のときをあたかも運命のような必然さで迎える、あるいは、僕たちにそう追体験させる。
おたがいのときと違うのは、傷付くことを恐れながらも勇気をだし、破局を避けられなかった後悔から本心で相手に向き合おうとすることだ。
本作のヒロインたちは、惨めな破滅のあとも恋に生き、より良く愛する方法を学ぶことで恋愛にひとを生まれ直させる力があるのを証明する、あるいは、僕たちにそう信じさせてくれる。
via. 『付き合ってあげてもいいかな(9)』
驚くべきは物語の説得力の高さだ。
本作より好きなマンガ作品は他にもあれど、この作品ほど登場人物の心情とそれらの展開に共感でき、繰り返し読むことに意味を感じられたものはほかにない。
キャラクターの魅力だろうか。それもあるだろう。
実際、本作の登場人物は要素に無駄がない。
たとえば、犬塚みわは体つきも良い(冴子談)美人だが、不器用で、生真面目で、すぐテンパるというギャップの魅力がある。また、それゆえに自己肯定感が低く、冴子には面倒臭がられる一方で、新しい恋人の獅子尾環にはその無私なお人好しさがふたりの関係を変える鍵となる。
もちろん、自己嫌悪の苦しみは読者も共感しやすいだろう。
猿渡冴子の場合、コミュニケーション能力が高く、世話好きで、頼りがいがあるが、自分の心の暗い部分に向き合うのが苦手で、何事にも(みわとは対照的に)器用なせいで自分の弱さを他人にみせられない。みわのような美人を恋人にもったからには嫉妬と不安に苦しむのも当然だ。
冴子の「見栄っ張り」は臆病なみわとの関係では不幸に働いたが、新しい恋人の鷲尾優梨愛はそれを肯定的に受け容れ、冴子の気遣いに感謝し、その気持ちをきちんと伝える優梨愛の素直さに心を救われることで冴子は彼女をパートナーとして認識するにいたった。
このように、みわと冴子のふたりには読者が魅力を感じやすいギャップがあり、共感できる苦悩があり、なにより、その人格的な欠点がふたりに破局をもたらすだけでなく新しい恋人との親密な関係を導くきっかけになっている。
これを、ひとりの相手、ひとつの恋愛、ひとつの価値観を絶対視しない作者の思想の表れともいえそうだが、さしあたり、物語を展開させる要素をスマートに限定することでその説得力、必然感を醸していることは指摘できる。
ちなみに冴子は、第85話の「トークルーム」で新米美容師の仕事にやつれた優梨愛を甲斐甲斐しくお世話しているものの、
やめて…
みじめになる…
わたし、仕事でも全然自分のことできていないのに、
おうちに帰っても、いっこも、
わたしのできることなんかなくて、
つらい…
と泣かれてしまう。
優梨愛のこのセリフ、熱心な読者なら、破局したあとのみわが絶賛病み期にはいって同じようにお世話をする冴子に八つ当たりで言った「冴子がっ…そうやって私に構うから。私…よけいに惨めになるっ…!」を想起したことだろう。
作者が物語を展開させる人物的な要素を限ることで、おなじような出来事がことなる状況、ことなる関係、ことなる影響をもって反復する。作者がその手法を意図的に使っていることはたしかだ。
via. 『付き合ってあげてもいいかな(7)』
彼女たちの新しい恋人はどうだろう。
環と優梨愛はいまだふたりの視点と内面から物語られることがなく、おたがいの恋人と、元恋人(つまりみわと冴子の両方)と対照的なキャラクター造形をされている。
そのため、主人公のように読者が共感できるというよりは彼女たちの欠点を補う「強さ」をもち、変化を与え、物語を展開させる「王子様」のような存在といえそうだ。
たとえば、年下の環は低身長の「無愛想カワイイ」という属性もちで、臆病なみわと(もちろん冴子とも)ちがって自分の気持ちや考えを率直に伝えられるため相性が良く、みわをつねにリードし、その男前さからかなり魅力的だ。
彼女たちの夏合宿でのやりとりは本作屈指の名場面だろう。
また、がさつな元恋人の冴子ともちがい、ふたりを結び付けたのがみわの実家の猫だったのにあやかり初デートを猫展にするなど、ロマンチックなみわを恋人として喜ばせるのにも長けている。
一方、美容師見習いの優梨愛はいわゆるアホの子だが、ひとの感情の機微には敏感で、冴子が暗い気持ちを抱えたときはすぐに察知して話を聴こうとするうえ、自分の気持ちを言葉にする能力が高いので、弱さを見せるのが苦手な冴子には包容力のある理想的なパートナーだ。
もちろん、心配性で焦りがちな元恋人のみわとも対極的な存在といえる。
キャラクター造形とその魅力という意味では、ポリアモリー(合意のうえで肉体関係も含めた複数のパートナーをもつ)で奔放な性格のリカちゃんや、アセクシャル(他人に性的魅力を感じない)、あるいはアロマンティック(他人に恋愛的感情を抱かない)で母親気質なうっしー。さらには、高校生の頃の体験から同性愛者に嫌悪感のある凪など、恋愛の外部、純愛の外部、同性愛の外部にある価値観のキャラクターもいきいきと描かれているのは興味深い。
恋愛の嫌な面、その恋愛の外にある多様な価値観もまるごと描く筆致は本作を語るうえで見過ごせない特徴だろう。
via. 『付き合ってあげてもいいかな(8)』
ところで、一般的には「魅力的なキャラクター」は作品のなかに存在しない。
作者は作品のなかに魅力的なディテールを積み重ねるだけで、キャラクターはあくまで鑑賞者の受容行為により彼ら彼女らのなかに発現する。換言すれば、読者がディテールを追いかけることで生起するのだ。
本作を語るうえでも当然ディテールへの言及は避けられないし、むしろその魅力はディテールにこそあるだろう。
たとえば、マンガは基本的に3人称の神視点で描かれるものだが(多分)、本作ではキャラクター同士の立ち位置や姿勢の違いによる視線の角度をコマ内の画に反映させることで、スクリーントーンや擬音語を使うことなく擬似的な1人称視点の多用に成功している。
それにより、読者が物語に感情移入しやすくなるのはもちろん、背景の書き込みが削がれず、描かれた人物や物体の映り方がそのまま視点人物の見方になるため、読者の想像と解釈を誘い込む余地を生んでいる。
特に、みわと低身長の環のやりとりではふたりの身長差が視点の角度差に活かされることで、たがいがたがいをどういうふうに見て、どういうふうに映っているか、視点人物の心情を自然と想像させられながら読者はページをめくることになる。
それはまた、作中人物に脚本上はあまり意味をなさない細かな動きをくわえることで彼女たちの生活空間を間接的に描きだすことを得意とする作者の筆致に適ったやり方でもあるはずだ。
さらに、本作のファンならご存知のとおり、登場人物たちのヘアースタイルもディテールとしてよく描き込まれている。
この場合に重要なのは髪型がたんにキャラクターデザインの一部なだけでなく、その人物の価値観やコンディション(病み期のみわはまさに見るに耐えない)、その変化をとおした時間の移ろいを表現していることだ。
意識して読むとわかるが、本作には時間変化の「說明」がほとんどない。今がいつ頃で、あるイベントから何日何週間が経過した、あるいは遡ったかのメタ的なモノローグやト書きがきわめて少ないのだ。
そのため、読者は時間の移り変わりを表現するディテールからイベント前後の時間の推移を想像しなければならず、流し読みをゆるさないという意味では敷居が高いものの、その負荷の高さがより積極的な読みの参加を促すことで読者の鑑賞体験をより深いものにしている。
おなじことは気持ちの「說明」がなされないふたりの恋人たちにもいえる。
すでに述べたように、恋人の環と優梨愛は彼女たちの視点・内面から物語られることがない。そのため、みわや冴子がなんらかのハプニングで不安に陥ったときは読者もまた彼女たちと同じ視点で「說明」のない恋人の心のうちをさまざまなディテールから推測するよう促される。
それはまさしく現実の恋愛関係そのもので、意味のあるディテールと「說明」のなさにより本作ほど作品世界を生られる鑑賞体験を可能にした作品を僕はほとんど知らない。
環の意味深な表情や呆れ口調からみわへの想いを推し量りながらやきもきして本作の更新を待ち続けた読者はきっと僕だけではないはずだ。
via. 『付き合ってあげてもいいかな(9)』
物語を軸としたアートフォーマットとしての漫画の強みは読者の没入のしやすさにある。
イラスト中心の展開なため小説よりも作品世界に入り込みやすく、映画やアニメとはちがって受容者の積極的な参加を必要とするためやや負荷は高いものの読者の没入はより深くなりやすい。
たみふるの『付き合ってあげてもいいかな』はその漫画の特性を最大限に活かした素晴らしい作品だ。
すでに述べたように、女性同士の恋愛というニッチな主題もさることながら、恋愛における読者の飽くなき「夢」を満たすのに終止することを良しとせず、純愛の外部、同性愛の外部、恋愛の外部も描く作者の筆のおおらかさは他のマンガ作品にはない美点であり、負荷の高さでもある。
また、作品世界とその場を生きる登場人物たちを活かすディテールの数々と「說明」のなさも、流し読みをゆるさないとともに疑似体験装置として読者の深い没入を可能にする。
本作は未完でありながら語るべきことは多いが、あえてもうひとつ挙げれば単行本巻末の「オーディオコメンタリー風まんが」だろう。
このコーナーでは(今よりもおそらく齢をかさねた)みわと冴子がおなじ布団のなかで単行本の思い出を振りかえる。
それはつまり、みわと環、冴子と優梨愛の今の関係からみわと冴子のいわゆる「元サヤ」の関係にもどる(か、「公認」の仲になる)ことを意味し、結末を宙づりにし続けるエンターテイメントのセオリーに反して本作はすでに読者が知る結末に向かっていることにも隠れた特徴がある。
環ちゃん最推し勢の僕としては彼女が哀しみとともにフェードアウトする展開だけは避けてほしいが、恋愛の酸いも甘いも分け隔てなく描くこの作者に期待するのはお門違いだろう。
本作は恋愛漫画の傑作となるだろうか?それはまだわからない。
日本の連載漫画のような長期に及ぶものでは途中から質が良くなることもあれば悪くなることもある(たとえばある種の「化けた」漫画作品として僕が最初に思い浮かぶのは石田スイの『東京喰種』シリーズだ)。
アーティストの長い人生のなかでは売るための作品を作らないといけないこともあるし、売ることがいちばんの目的になって自身の欲望や良し悪しの価値基準が見失われることもあるだろう。ひょっとしたら本人の満足できるものを作り続けることが、経済的に、体力的に難しくなるかもしれない。
優れた作品を作り続けることはその負荷の高さゆえに難しい。
僕が願うのは、作者が身体を壊さずに、自分が満足できるものを描き続けていくことだけだ。本作の約束された誉れはかならずや来るべきときにもっと世に知られることを確信している。