オタク男性の秘教的な絆の喪失
※本稿の「オタク」はあくまで「オタク男性」とし、「オタク女性」については筆者がその生態をよく知らないため議論の対象外とする。
オタクに関して一筆したためてくれと依頼され、かつてオタク文化に首まで浸かっていたからお茶の子さいさいですよと二つ返事で引き受けたのが間違いだった。
確かに中高時代は、アニメや漫画、美少女ゲームに投資するのみならず、カードゲームショップで出会った大学生とコスプレ喫茶に通い詰めていたので馴染み深くはあるのだが、いざ書こうとすると、当時の思い出から知見を導くのは難しい。
思い出は美しいものと相場が決まっているのだろうか? 過去を必要以上に感傷的に語りがちなのが我々人間で、下手を打ったら羊谷知嘉氏のブログで御法度とされている「無意味なエモ語り」に堕しかねない。だからこそ、かつて「我々(オタク)はどのような存在だったのか」と直接的に問うよりも、「かつて我々(オタク)はどのような環境にいたのか」とあくまで間接的に問題提起する方がはるかに有益だし、結局のところ、その切り口こそが前者の問いに答えるために最も適切なのではないか。
ところで、第29回文学フリマ東京で刊行された GRATIA Vol.6 に寄せた「現代中国文化のエコシステムとブンゲイファイトクラブ批判」というエッセイでは、インターネット事業会社テンセントのとある施策……、端的に言うと中国のクリエイターを育てるためのエコシステムについて論じている。
テンセントはアリババに比肩する巨大企業なので名前を耳にしたことのある方は多いかもしれないが、彼らの事業を簡潔に説明できる方はそう多くないだろう。それもそのはず、11億人のユーザーを擁する WeChat(微信)を開発したり、あるいはクラッシュ・オブ・クランのデベロッパーである Supercell や、フォートナイトで有名な Epic Games の筆頭株主であったりと、彼らのインターネット事業は多岐にわたるのだ。そのうちのひとつが、自社の有する知的財産(IP)をゲームやアニメ、あるいは漫画などの多分野に展開する「多領域エンターテイメント戦略」である。
詳細は GRATIA Vol.6 を読んでいただきたい(唐突な宣伝)ので要点だけ説明すると……、
- IPを充実させるためには優れたクリエイターを確保するか育成する必要がある。ジャンルが何であれ、良し悪しを見極める眼を養うには多くの名作に触れなければならないが、比較的品質の良い日本産のアニメは海賊版しか出回っていなかった。『NARUTO』などの、評価の高い作品を正式に輸入した。
- 漫画投稿プラットフォームを開発するのみならず、将来性のあるクリエイターとは積極的に契約し、編集や技術指導を施し表現力の向上に寄与する。そのような取り組みで作家との信頼関係を固めた上で作品のメディアミックスも主導し、売上を作家に還元するようにしている。経済的な基盤を得た作家は安心して創作活動を続けられる。
ことさら言うまでもなく、作家やイラストレーター、あるいは声優といった「クリエイター」の育成については様々な団体が投資している一方で、市場のメインプレイヤーであるはずの受容者、つまり「オタク」たちの教育について論じられることは少ない。
そもそもオタクになるための教育が存在するのかという疑問すらありそうなものだが、学校や習い事のような公的な環境では存在しないに等しいけれど、恋人や友人間などの私的な領域において、擬似的な師弟関係として成されることはかつてあったと言える。「師弟」という表現は少し大袈裟かもしれないが、作品の紹介に留まらず、即売会での効率的なふるまいやオタクとしてのマナー、あるいはイベント内の不文律のような人間性に対する影響も少なからず存在するという点においては「教育」に近いので、決して的外れではないだろう。
via. ToHeart
たとえば、オタク文化に耽溺する大学生たちの生活を描いた漫画作品である木尾士目の『げんしけん』では、当時のオタク的な師弟関係が現実味のある筆致で表現されている。
都内の大学に進学し、アニメやゲームなどを嗜むための現代視覚文化研究会に入会した主人公が、同好の士である先輩たちから美少女ゲームのような未知なコンテンツを紹介されたり、様々なオタクスポットやイベントに案内され、そこでの御作法を教えられたりする描写に既視感をおぼえた読者は多かった。『げんしけん』がアフタヌーンで連載されていた2000年代初頭は動画配信プラットフォームもなく、オタクコンテンツに関する情報も現在ほどインターネットに充実していなかったのだ。
その一方で、文学や音楽のような権威性や伝統性はオタク文化にはないにせよ、必ず押さえておくべき基礎教養とも呼べる作品はある程度共有されていたわけで、自身の好きな作品のみを嗜む者はモグリと見做されていたのである。それゆえにオタク界隈には教育者の存在が重要だったのだ(ライトノベルなら『イリヤの空、UFOの夏』や『ブギーポップは笑わない』、美少女ゲームなら『ランスシリーズ』、『To Heart』などはマストだった。ちなみに、初心者の友人に対して押さえておくべきエロゲーを紹介するオタクの様子を歌った曲がニコニコ動画にかつて存在したのだが、残念ながら詳細はほとんど覚えていない)
まさに「知る人ぞ知る」それらの情報を遣り取りする師弟関係にどこか秘教的なおもむきを感じられ、自身が「オタク」の一員であることに多少の誇りすら抱けた時代だったのであろう。
察しの良い読者諸賢は筆者の口ぶりからお分かりだろう。
星一徹のように父が家庭内で強権を振るう亭主関白、もしくは伝統工芸に見られた長い下積み期間を伴う徒弟制度が現代では衰退しているように、オタク的な師弟関係もまた2010年代以降は目立たなくなっている。その一因こそが本稿のタイトルにもある美少女ゲーム市場の縮小なのである。
本稿では性的描写の存在する「エロゲー」や、性的描写のない「ギャルゲー」などひっくるめて「美少女ゲーム」と定義するが、さて、2005年には350億円を誇った市場規模は年々右肩下がりで、ここ数年の売上本数は年率40%減という思わず目玉が飛び出そうな恐ろしい減少率を叩き出している。それゆえにソーシャルゲームに活路を見出すなど広範なユーザーを獲得する方針にシフトしているメーカーが増えたのだが(ルネソフトのスタッフブログには美少女ゲーム界隈の寂しい事情が赤裸々に記されているのでぜひご一読願いたい)、この現象が意味しているのはつまり、アンダーグラウンドな市場環境だったからこそ許されていたマニア向けの先鋭的な表現とそれへの評価の蓄積が、かつて美少女ゲームに存在していた秘教的なおもむきとともに喪失してしまったことに他ならない。
より端的に言い換えると、美少女ゲームの市場縮小をきっかけに「知るひとぞ知る」、あるいは「解る者には解る」という仲間意識をくすぐる要素が薄まったゆえに、美少女ゲームを介したオタク的な師弟関係も魅力を失った、というわけだ。
その結論を踏まえて、美少女ゲームの衰退がオタクの人間関係に及ぼした影響を後編で詳しく解説しよう。