先日、神戸市立東須磨小学校の教師間イジメで加害者側の4人が暴行と強要の疑いで書類送検された。
この4人もイジメのご多分に漏れず「面白いからやった」「受け容れられていると思った」と述べており、イジリがエスカレートした結果としての教師間イジメだったことを伺わせる――ひょっとしたらこの4人は今でもイジメとは思っていないかもしれない。
刑法上は暴行と強要の定義はなされているけども、イジリとイジメの線引きはあまりに感覚的でむずかしく、加害側とその周囲はイジリのつもりでも被害側がイジメと受け止めている場合は多いし、客観的に記述してみるとイジメっぽくはないけれども被害側はいろいろな要因が重なって深い心の傷を負っていることも少なくない。
僕は高校生の頃イジメられていたのだろうか?
正直なところよくわからない。
僕は野球部だったけども、ラグビー部にはK君という最大級のイジられの子がいて彼は今思い返してみても余裕で刑法に引っ掛かるレベルの厳しいイジリを当時受けていた。
1度、ラグビー部とも親しかった野球部のエースS君に聞いてみたことがある。
3階の校舎の窓からK君の授業用メガネを落とし、彼が慌てて拾いにいっているあいだに同じところへ事前に盗んでおいた彼の携帯電話も落として大騒ぎしていたとき、ラグビー部から少し離れて笑っていたS君に「K君へのあれはだいじょうぶなの?」と、休み時間は仮眠をとるしかやることがなかった僕が珍しく自分から話しかけてみた。
「だいじょうぶなんじゃない? ほら、いつもみたいに笑っているし……」
たしかにK君はいつも笑っているように遠目からは見えた――それも、その場を取り繕うためのわざとらしい笑い方ではなくイジられることを心から楽しんでいるように見えた。
「ふーん……」
少し驚きながら答えたS君から離れ、というのもそれ以上彼と話すネタがない僕は気まずい空気を避けたかったからだが、持て余していた休み時間をその日何度目かのロッカー整理でどうにか潰して教室にもどり机に顔をふせた。
K君がその後どうなったかは知らない。
彼はそのイジリを心から楽しんでいたのかもしれないし、本当は心のなかで傷ついていたのかもしれない。
ただ、僕自身は野球部内の先輩からも含めた総動員のイジリを耐えるだけだった――夏の県大会予選で敗けて引退するまでの2年半、僕がやり続けてきたことは無意味に耐えるだけだった。
人生で1度でも男集団のイジられ役に陥ったことがあるひとならわかるはずだ、何を言っても真に受け止めてもらえず、メタな視点から常に自分の言動が解釈され、さながら男集団の潤滑油として祭壇で身を切り刻まれてゆくあの血を流す生贄になった感覚は――当然、僕の居場所なんてあるはずもなかった。
「むかしの夢にいつまでうなされてんの?」
そういって笑ったのはいつも同じ布団で寝ている恋人だ。
そう、野球部を引退して13、4年経った今でも僕は「部活を辞める夢」にうなされ続けている。
今でこそ趣味の権化のようにノージャンル系批評を標榜して日々ブログを書いている僕だが、高校生の頃はおよそ趣味と呼べるようなものはなにひとつとしてなかった。
それもそのはず、当時は週休1日で週6日はかならず夜の7、8時まで練習があり、土日は朝から晩まで練習なり試合なりが基本のルーティンで、自分の自由時間というものがおよそないにひとしい軍隊生活を送っていたからだ。
大人になった僕がみる夢はきまって、今のやりたいこと・やるべきことが腐るほどある心と状況のままあの頃にタイムスリップするもの。
観たい映画やドラマを胸に抱え、終わらせたいゲームに取り掛かろうとしていながら何故かあの忌まわしい薄暗い部室で野球のユニフォームに着替えている僕の苦しみを想像してほしい――読みかけの学術書、頼まれていた小説の批評、寄稿者さんとの打ち合わせがことごとく毎朝毎晩のヘタな野球の練習に押し潰される憤慨、絶望。
救いがあるとしたら、何度も夢のなかで当時の顧問、通称 “軍曹” に部活を辞める話を付け、僕にも比較的優しかったS君に引き留められながらもその理由を繰り返し説明し、まだ陽が明るい夕方の電車に幾たびも乗って帰ったことだろう。
この悪夢にとり憑かれはじめた大学生の頃は軍曹のいる顧問室に向かうのが精一杯だったが、多分、終わりは近いはずだ。
10年以上を掛けてようやく僕の無意識はあの美しき青春に終止符を打とうとしている。
僕の記憶がたしかなら、入部当初は30人ちょっとはいた同期も引退間近には11人にまで減ってしまった――なかには部内で唯一といえる仲の良い友だちもそのなかにおり、今思えば初夏の彼の誘いに乗って一緒に辞めるべきだった、あのときならまだ遅くはなかった。
高校1年生の冬、僕の母親がおかしくなった。
原因というかキッカケはちょっとしたことで、長年仮面夫婦状態だった父親が今振り返ればささいな「浮気」をしたせいで母がその半世紀近い人生で溜めに溜め込んでいた澱が暴発して心が壊れてしまった、そんな感じだ。
気が付くと、夜中に母は凄まじい奇声を上げながら暴れており、反射的に僕と父はその小さな身体を全力で止めにはいった。
母の華奢な身体のどこに大の男2人を押しのける力があるのかと不思議な冷静さで首を傾げながら、家中の刃物を父がはやめに隠しておかなかったら今頃血まみれだっただろうなと想像するとおもわず皮肉な笑みが零れた。
大学受験を目前に控え、壮絶な夫婦喧嘩をはじめた両親に嫌気が差して家をでた兄は一家心中の報道に何を想うだろう?
「あなたが元気でいたから、私は自殺せずに済んだ」
気が付くと、嵐のような夜が明けて母は僕の胸のなかで泣いていた。
母のこの告白に当時の僕は深い衝撃を受けたように思うが、残念ながら昔の記憶のほとんどが細切れになって散らばっており、今となってはそれらを拾い集めて思い返すことができない。
ただ、事実だけをいうと当時の僕はこの十字架の言葉に磔にされた気持ちになった。
ひとりの女性の人生の重みが掛かった告白を受け止めるには当時の僕はあまりに弱く、繊細で、屈折し、素直ではなかった。
野球部を辞めるという選択肢が僕のなかで消えたのはそのときだ――母に心配をかけないために、生に留まる錨をずっと握っていてもらうために、当たり前の日常生活を皆と同じようにもっともらしく営むことが僕の義務となった。
イジメられてなんていないし、毎日楽しく登校して部活のレギュラー入りを目指して声を枯らしながら頑張っている、それが僕だ。
年間の高校生活のなかでいちばん辛い日は文化祭当日だろう。
なにせやることがない。
クラスの催し物を適当に手伝ってさっさと帰れれば良いのだがそこはさすが野球部、文化祭だろうがなんだろうが放課後の練習があるので無趣味で友だちのいない僕は何時間もトイレの個室にこもってやり過ごした。
途中、野球部の同期や後輩が騒々しくほかの友だちと入ってきたときほど惨めな気持ちを味わったことは今でもそう多くない。
だが、高校3年生の最後の文化祭は少し違った。
いや、トイレの個室に籠もっていたことには変わりないが、僕は携帯電話に自分の言葉を打ちこみ推敲することに熱中していた。
――ネットライム。
今でこそ『フリースタイルダンジョン』などのおかげで日本のヒップホップはクールな若者文化として扱われているが、2000年代中頃ではまだそんなことはなく、ましてやインターネットで韻を踏んだ文章を交互にぶつけて対戦するネットライムはいかにもなアングラ然とした掲示板サイトが3、4あるだけの小さい文化圏だった。
僕がどうやってそこに辿りついたかは全く覚えていないが、何の下敷きも教養もなかったにも関わらず短い期間である掲示板サイトの上位層にも交じれるようになり、ネットライムクルーの一員として毎週ほかのチームと試合したりしていた。
要するに僕の居場所が生まれたのだ。
そこではなりたい自分になれ、だれにも怯えることなく自分の言葉を紡ぐことができた。
夏の県大会予選第2回戦目、負ければ即引退という大事な公式戦だが僕はもうひとつ別の引退試合も抱えていたため酷い寝不足で気分が悪かった――当時所属していたネットクルーのリーダーも岐阜県の受験を控えた高校3年生だったため、彼と話しあって今週の対外試合を最後に解散・引退しようと決めていたからだ。
野球部の試合に直接絡まない僕は彼らを応援しサポートするほかに球場でやることがなく、引退間近で終始緊張が走り僕へのあたりの厳しさが増していた彼らを親身に手伝う義理も気持ちもなかった僕は、前日の深夜と移動バスのなかであらかた書き綴ったライムをウォーミングアップ中、準備中、そして試合中に抜けたトイレのなかで完成させて投稿した。
「アイツ、試合にも出ていないくせに泣き過ぎじゃね?気持ち悪いんだけど」
僕がキレイなユニフォームのまま野球部のだれよりも長く、強く、大きな声で泣き続けたのは2年半もの時間を棒に振ったことへの後悔と耐え難い虚無感からだった。
人生は物語ほどには巧く筋書きを運んではくれなかった。
青山学院大学を志望し、上京を夢見て、僕といっしょにネットライムを卒業した岐阜の彼とは東京で本当のヒップホップクルーを組むことを約束したにも関わらず、その後はおたがいに連絡をとることはなかった。
おかげで僕がマイクを握ることはなく青臭い思い出として嫌な記憶とともに心の闇のなかに封じられた。
だが、僕は今も韻は踏んでいないにせよ文章を書き続けている。
東京の創作系学科に入ったことも、何年間も大学の友人たちと同人誌を作り続けたことも、今もこうして独り批評を書き続けていることも振り返ればあのときのライムの推敲が出発点になっているような気がしてならない――少なくともあの数ヶ月間の居場所のおかげで僕はぐしゃぐしゃに潰された自尊心を校舎の窓から投げ棄てずに済んだ。
明日、香川県議会でネット・ゲーム依存症対策条例が採決され、おそらくは圧倒的多数で可決される。
本条例が議会制民主主義の原則に著しく反するやり方で制定を目指されていることはネットに親しんでいるあなたならご存知だろう。
たしかに昨今のゲームは中毒性が高い。
しかしそれは、デジタルゲームがプレイヤーの入力に対してきちんと結果を出力して返してくれる世界だからで、幾多の挑戦が用意され、幾多の友が居て、作品によってはだれからも怒られることなく試行錯誤を繰り返せる安全な自己実現の場だからだ。
学校や家庭で居場所のない子どもがそうした自分が自分でいられる場所に熱中しない理由がはたしてどこにあるだろう?
ゲーム依存で不登校になるのではなく、居場所がないからこそネットやゲームの世界に依存してしまう子どもの気持ちがわからない大人は教育にクチを出すべきではない。
僕の両親は何もいわなかったものの色々と察していたのだろう、子どもに負担をかけた負い目もあったせいかいくら僕が携帯電話越しにインターネットの世界に熱中し「依存」しても何ひとつ咎められることはなかったように思う。
おかげで、人様に誉められる生きかたではないが、親よりもはやく死を選ぶことは今のところはなく、あの日の後悔と虚無感を2度と噛み締めることがないようにと自分なりの筋を通しながらそれなりに幸せには暮らしている。
お金もなく、友だちも指で数えるほどだがあの2年半に比べればなにより充実感が違う。
今度の何を規制したいかも不明な無根拠と無見識に満ちた条例案は、結局のところ自分のよく知らない何かに熱中している子どもを無理やり規律に従わせて檻に閉じ込めておきたいがための暴力的な欲望の発露なのだろう。
何に熱中しているかわからなければ自分もこっそり遊んでみれば良い。
子どもとの会話が途絶えているなら一緒にプレイして教えてもらえば良い。
ルールが必要ならおたがいが納得するまでキチンと話しあって決めれば良い。
スマートフォンやゲーム機の先にある見ず知らずの場所が、少なくはない子どものただひとつの心の拠り所となっており、彼ら彼女らの居場所を家庭や学校、地域に用意できなかった大人らが今度はその避難所さえも潰そうとしているリスクを想像してみてほしい。
それでもなお、あなたは香川県議会のこの横暴を黙って見過ごせるだろうか?