事故も虐殺も瞬きの間に脳内を過ぎ去ってゆく。
歴史の終わりが語られて久しいが、実際には僕たちの物語る能力を現実が超えはじめたのだろう――グローバル化とも、情報化とも、加速化ともいえるが、詳細はこの記事ではふれない。
デジタルゲームの世界は話題の移り変わりが激しい。
新作発表やトレーラー公開に始まり、先行プレイにリリース直後のインプレッション、攻略や小ネタ集、毎年恒例GOTYの発表――。
YouTube はそれらにあやかったレビューやネタ動画に溢れ、Twitch では配信者たちがスキルの高さとリアクションの大きさを競い、グーグル検索はSEO対策に特化した企業主導型ゲーム攻略サイトと2chのまとめサイトに牛耳られている。
もちろん、そうした言論空間で掻き消されているのは批評だ――作品の良し悪しを論じるという意味での。
去年、ほぼ全ての大手海外レビューサイトで驚異のほぼ満点と記録的なセールスを叩きだした大傑作ゲームがある。
コンシューマ機専用タイトルとは思えないグラフィックの美麗さと、アメリカの開拓時代末期を舞台としたその緻密な作り込み、エンターテイメントには似つかわしくない冷淡な死の描き方が出色の本作だが、日本国内の評価はかならずしもそうではなかった。
今回の記事ではRDR2の国内レビューから批評の使い方を解き明かしてみよう。
ちなみに本記事で使っているすべての画像は僕のキャプチャであり――お洒落自慢だ。
以前、批評とは何かという問いは「感想」や「解説」と比較すればわかるとクロワッサンの記事で書いた。
この場合の批評は、物事の良し悪しを根拠を示しながら論じることと僕は定義している――重要なのはそれ以上でも以下でもないということだ。
それを前提に以下のレビューを読んでもらいたい。
本作はオープンワールドを採用しており、基本的にどこへでも行けるが、そのグラフィックスはまさに文句の付けようがないほど美しく、Rockstar Games の本気と執念が感じられる。冒頭の猛吹雪の山中、穏やかな草原、動物のオアシスとして機能する水辺、そして人々が行き交う街中、どれをとってもまるで現実を切り取ったかのようなリアルさで、正直なところただ驚くしかない。時間の経過によって日々訪れる朝日や夕日は、ただそこにいるだけで絵になり、道を行き交う人や馬が作り出す道路のぬかるみすらも圧倒的なリアリティを漂わせる。
モデリングやグラフィックスが素晴らしいゲーム作品は、今までにいくつも体験してきたが、オープンワールドゆえの「広範囲のエリアと、多数のオブジェクトを一度に表示しなければいけない」という制約を持った作品で、ここまで質と量を両立させたものは、ほとんど見た記憶がない。
この記事は、2000年に立ち上げられた総合ゲームサイト 4Gamer.net のプレイレポートで、専属ライターの津雲回転により書かれたもの。
引用部分はこの記事中でほぼ唯一「批評=価値判断」に関わる部分で、それ以外の長大な文章はすべてプレイングの「解説=事実の記述」に割かれており、文字通り、実直なレポートという枠を良くも悪くもでないものだ。
経験上、大手の国内ゲームサイトで掲載されるレビューのほとんどがこのタイプだ。
マジメにプレイすればだれでもわかることだけをキチンと書く――故に、実用的とはいえるが、保守的で、退屈だ。
また、「批評」ではなく「解説」という視点で観た場合もこのレポートにはいささか不満が残るだろう。
すべては比較の視点がないからで、同時代的に観て、あるいは歴史的に観てという「検証」の手間を省いているため「へえー」や「なるほど!」といった新しい知見を読者が得ることはない。
あくまでマジメな優等生によるレポートなのだ。
もし、津雲回転のこの記事で褒められる点を挙げるとしたら、発売後1ヶ月経った文章とはいえ、少なくともメインクエストを中盤以降までは進め、サブクエストもそれなりの数をこなしていることをうかがわせる実直さだろうか。
ゲーム関連のレビュー記事には、きみ、序盤のさわりの部分しかプレイしてないよね(しかもそれを明記せず隠してもいるよね)……と思わせるものが少なくない。
寒く、苦しく、痛い、そんな日々。19世紀末、アウトローとフロンティアが駆逐される時代の流れを身をもって体験するようなゲームプレイ。
凄まじいリアリティに圧倒される。一度射撃すると撃鉄を手動で起こすシングルアクションのリボルバー、積雪と岩場に足を取られながらの移動、ファストトラベルすら序盤は許さずひたすら何もない自然を移動するシーケンス、落ちている弾薬を取る、回復アイテムを摂取する、その一切が省略されることなく描かれるアニメーション。
この作品は何も面白くないし、楽しくない。そもそも楽しませようという理念で作られては居ない。
(中略)
そう、これは従来の定義における「ゲーム」というより、「シミュレーション」に近いのだ。マカロニ・ウェスタン・シミュレーションだ。
この記事は、本人の言葉によれば「批評やコラムなど純粋なテキスト・コンテンツのみで月50万PⅤ、はてなブログ読者数1100人超え」を達成したというゲーマー日日新聞を主宰する Jini というゲーム評論家の文章だ。
先程の津雲回転とは違い、彼の逆説的な表現なので額面通りには受け取るべきではないが、面白くなかった、楽しくなかったという「批評」でも「解説」でもない「感想=かけがえない感情や想念」を前面に押しだし、読者の共感を呼ぶ、あるいは煽る言葉を冒頭に仕掛けているのはさすが月間50万PⅤ達成といったところか。
末尾も、「あぁ、ただ何もかもが美しい。景観も、所作も、物語も、人物も、演技も、構造も、理不尽ささえも」というエモさしかない言葉をこしらえていることからもこれらが作為であり、素朴な感想を垂れ流しているほかのブロガーとは一線を画していることがわかる。
「解説」という視点で観れば、開発元が同じ Grand Theft Auto: San Andreas だけでなく、 Deus Ex, Thief: The Dark Project, Hitman: Silent Assasin, S.T.A.L.K.E.R. といった過去の類似作とならべることで、彼の言葉を借りれば「シミュレーション的なゲーム」ないし「洋ゲー」の蘇りとして歴史的に評価していることは流石といえる。
RDR2の別の批評記事を note で書いていたのでそちらも観てみよう。
その疑似家族の物語は序盤こそ順風満帆だった。ブラックウォーターにおける失敗が一味に影を落としているものの、リーダーであるダッチのことを、仲間は「父親」代わりに信頼している。当然、アーサーもダッチのことを父のように慕い、ダッチもアーサーを「息子」と呼ぶ。キャンプは毎日皆が語り合い、祝い事の際には一緒に飲み明かす。
(中略)
正しく、このアーサーの人生こそが『RDR』と『GTA』をつなぐミッシングリンクなのである。ギャング団という「疑似家族」からマーストン家という「本物の家族」へ。アーサーは生と死を通して、空想から現実へと立ち返る。
物語の終盤、マイカの裏切りが発覚したその時、アーサーは何度も銃弾をその身体に受けながらもジョンを守る。それは様々な心境を嘘で塗り固めた男が、最後の最後に本心から守ろうと思えた「本物」なのである。
Jini のこの記事ではまず、前半部を開発元の Rockstar の「解説」にあてている。
要点をまとめると――今作のRDR2は、同社の大ヒットシリーズであるGTAを手掛けてきたスコットランドの Rockstar North を中心に、前作を開発したカリフォルニアの Rockstar San Diego をふくむ世界中の同社のスタジオとの共同プロジェクトで、ノースのGTAシリーズは常に疑似家族を物語のテーマとしてきたのに対し、サンディエゴ開発の前作RDRは本物のアメリカ製西部劇をベースにした本物の家族の物語だった。
この「解説」と、「疑似家族」と「本物の家族」の対置という 「解釈」を下敷きにして Jini は先程の引用のようにRDR2を読み解いている――その「解説」と「解釈」の妥当性は問題にせず、あくまでその方法論に焦点をあてよう。
ここで問うべきは「で?」のひとことだ。
考えてみてほしい。
「疑似家族」と「血縁家族(僕自身の表現にあえて換えた――賢いあなたならその意味がわかるはず)」をテーマにした物語は、紙とペンさえ渡せば読み書きの心得があるひとならだれだって書けるはずだ――その作品の質さえ問わなければ。
つまり、RDR2という作品の物語を「疑似家族」から「本物の家族」へのバトンタッチと読み解いたとしても、その素晴らしさをどんなに言葉にしたところで同じテーマの作品と比較しなければその質の高さを導くことはできない。
要するに Jini の批評には方法としての「批評」が欠けているのだ。
僕は以前のクロワッサンの記事でこう書いている――適切な方法をとらない顕在的批評は受け手のあなたからは共感できるか否か、信用(あるいは信奉)するか否かの対象にしかなりえない、と。
この批評の欠如は、先程の彼自身のサイトで掲載している最初の批評にも指摘できる。
せっかくなので、「疑似家族」から「本物の家族」へという解釈の中身にももう少し踏みこんでみよう――僕はこの有料記事にお金を払ったのでそれぐらいの権利はあるはずだ。
まずはこの対置、正確には「疑似家族」と「血縁家族」なのだが、後者を「本物」とすりかえることで明白な優劣関係に書き直したこの対置は思想的にあまり良いものではない。
というのも、「血縁家族」は親子関係という無間地獄を核とし、それが血縁的に繋がりが深いほかの親子関係と結びあうことで親子関係の濃密さを幾分緩和して成立するのだが、これを「本物」と美化し、近代以降に明らかにされてきた親子関係の暗い面に蓋をするのは思想的に浅薄で、歴史的にはセンチメンタルな懐古趣味だからだ。
むしろ、非血縁的な繋がりを重要視する方が今日の思想的課題といえる。
愛犬家であればその繋がりを「本物」ではないと疑うひとはいないし、不妊症を抱えていたり同性愛者だったりする夫婦が養子として迎える子との非血縁的な関係は「本物」になりえず、疑似的な「空想」の関係にすぎないのだろうか?
こうした思想的観点からRDR2の退行的な物語のあまやかさを批判し、記録的なセールスの要因として指摘することは理屈の上ではできる――「疑似家族」から「本物の家族」へという解釈が妥当ならば。
Jini のRDR2批評のもうひとつの問題点はここだ。
彼が見落としている、あるいは解釈の外に排除しているのはアンクルという一風変わった登場人物の存在だ。
アンクルもまた、主人公のアーサー・モーガンとその弟分のジョン・マーストンの属するギャング団の仲間で、彼のポジションをひとことでいえばタダ飯喰らいなのだが、興味深いのはアンクルも本作のエピローグで「本物の家族」のマーストン一家と同じ屋根の下でおそらくは終生暮らしていくのだ。
笑えるのがギャング解散後のジョンとアンクルの再会シーンだ。
自前の農場経営の第1歩としてまず痩せ衰えた土地を買うお金を借りにジョンは銀行へいき、その帰りにアンクルとばったり出くわすのだが、このときのジョンは実は奥さんのアビゲイルに見限られ、息子を連れて出ていかれていた――「本物の家族」なのに。
そして、アンクルはジョンが買い上げた貧相な土地の居候になり、彼の情報でむかしの仲間で最も頼れる男、アフリカンとネイティブ・アメリカンの血が混じるチャールズと再会、そしてまたアンクルの発案でみすぼらしい掘っ立て小屋を引き倒し、アビゲイルら「本物の家族」を迎えるに足る大きな家を3人でイチから建てるのだ。
「本物」の血縁家族が、結局は元「疑似家族」の非血縁的な繋がりに支えられて成立するというのはなんという皮肉だろう。
そしてエピローグ。物語はマーストンの視点で再び始める。
(中略)
そうとも。ここから、マーストンの本物の人生が始まるのだ。
だが間違いなく真摯で人間らしい本物の生がそこにあった。牧場での乳搾りも、家の建築も、賞金稼ぎも、全ては自分が本当に守るべき家庭のためにすることなのだから。
このように、「疑似家族」と「本物の家族」という対置と優劣関係を安易に持ちこむと、RDR2の物語が良く出来ているからこそ細部で奇妙なねじれを生んでしまう。
主人公のアーサー・モーガンにかぎっていえば、彼自身はたしかに「疑似家族」から「血縁家族」へ、「空想」から「本物」へという解釈を適応できるかもしれない。
しかしながらサブクエストをかならず受注するタイプのプレイヤーであれば、アーサーには彼のアウトローな生き方から相手家族の反発を浴び添い遂げられなかった元恋人がおり、彼女と再会した後もふたりでどこか遠い土地へいき新たな「家族」を築きたい気持ちと、彼が面倒を見なければならない今の「家族」への責務とのあいだで引き裂かれることを知っている――「本物」と「空想」という対置をここで適応すると皮肉にもその対応関係は転倒する。
もちろん、アーサーは彼が育ったギャング団という「疑似家族」を見捨てられなかったわけだが、メアリーはそれを見通して彼から貰った婚約指輪をさよならの手紙とともに送り返す。
アーサーはそれを弟分のジョンに託し、ジョンはその婚約指輪でアビゲイルにプロポーズするのだが、賢明なあなたならもうわかるだろう、Jini が解釈したようにアーサーは「空想から現実へ立ち返」ったわけではなく、今ある現実の家族にこだわったからこそ、彼が選べなかった恋人とのもうひとつの人生の選択肢をジョンを通して生きようしたことを。
物語をカンタンな解釈に落としこむために外部から不要な概念を持ちこむのは批評なるものにありがちな過ちだ。
優れた物語であればあるほど安易な解釈には細部が抵抗し暴れだす。
今回取り扱った文章はいずれも比較的質が高いものだ――本当はもっと酷い「感想」だけのレビューもとりあげたかったが例のごとく寄り道が過ぎたのでこのあたりで文章を締めたい。
津雲回転の文章は実直で退屈なプレイレポート、Jini の文章は解説やブログ記事としては見事だが批評や解釈としてはお粗末な評論。
これら2つの文章の検討から僕がいえるのは、「感想」も「批評」も「解説」もそれぞれ適切なやり方で有効活用した方が良いことだ。
読者にわかりやすい「感想」を 冒頭と末尾に挿れるのは文章を普通の意味でおもしろくし、作品やその背景の「解説」は文章をより実用的なものに変え、歴史的文脈を踏まえられるだけの専門知識と能力があれば作品の外部的な価値も導きだせる。
しかし、この3つそれぞれのできることとできないことを混同すると破綻する。
特にありがちなのは作品の内在的な価値を論じる「批評」の根拠を自分の「感想」や「解説」あるいは「解釈」にもとめることだ。
だから、僕のこの記事を最後まで読み終えたあなたならもうわかったはずだ、自分が批評やレビューを書く際にはそれぞれをキチンと分け、どう配置するかを工夫することでより実用的でおもしろい批評が書けることを。
手前味噌だが、公平性を期するために僕が半年前に制作したゲーム批評動画も掲載しておく。
よろしければ高評価と視聴者登録をお願いします!!