ピーターの法則が勧める創造的無能
タイの外資系企業で活躍する友だち夫婦を迎えた雑談動画も終わりを迎えようとしている。
全4回、打ち合わせも数えれば約10時間もの四方山話は大変に刺激的で、日本社会を対象化するだけでなく自分の生き方も考えさせられた。
今回は、先日アップした日泰の働き方比較の動画を受けて、僕が避けていながらもいずれは書かねばと思っていたネタを放出したい。
ずばり、非正規雇用のフリーターという働き方を何故僕が選んでいるかだ。
本当は動画中でも話したブルーワークの頭脳労働について書きたいのだけど、僕が労働や働き方を問題にするならばまずこの疑問をクリアにしてからでないとと常々考えていた。
日本国内の比較的上位の私立大学、それも大学院まで卒業しておきながらホワイトカラーの正規雇用を目指さない僕のような生き方をしているひと、あるいはそういう生き方を強いられているひとの暮らしを直接知っている読者はそう多くないだろう。
実際、トントン拍子で就職まで漕ぎ付けられたひとや実家が裕福で学生時代に必要以上のアルバイトを要さなかったひとは、高卒や専門卒、非正規雇用の働き手、あるいは肉体労働の従事者と日常的に関わることはなかっただろうし、職種によってはまったく知り合いにならずにきたはずだ。
なので、月収15万円前後で地方都市で暮らすリアルをまず手短にお伝えしたい。
――たとえば、老後は考えられない。
国民年金は免除申請を繰り返しているのでこのままの日本での暮らしが続けば老後の隠居生活は存在しない。フリーターでも会社の社保加入を義務付けているところもあるが、そうするとフルタイムで働いても月収が12、3万円を下回るので現状の生活が相当厳しくなるはずだ。
――たとえば、恋愛結婚出産が考えられない。
望まれた出産を選ぶことはないだろうが、結婚などしょせんは籍を出すだけとはいえワーキングプアの経済状況では「イエ」を配慮するひとなら良識的にはできないはずだ。特に、男性であれば新規の恋愛すら絶望的ではないだろうか。
――たとえば、冠婚葬祭の出席が考えられない。
新幹線旅行や数万円のご祝儀などを気軽に考えられる財布事情ではないため、遠方の冠婚葬祭は相対的にかなりの出費となる。高速バスという選択肢もあるが、高速バスで失う時間と体力を考えるとなんとも頭が痛い。
――たとえば、友人知人との交際費が考えられない。
社会人になってからどの程度の交友関係を維持できるかはひとによってかなり差があるだろうが、余程に無趣味なひとでないかぎり毎日毎週の交際費など気軽に割けるものではないだろう。
――と、ここまで思い付くままに挙げてみたが、あらためて振り返ると地方都市での月収15万円前後の暮らしはヒトとしての普通の幸せ、つまり、愉快な仲間とわいわい楽しみ、恋に落ち、家庭をもち、子を育て、自分の築きあげた経済的・文化的・人的・精神的資産を譲り渡すという幸福をなんら達成できるものではないことがわかる。
だからまあ、非正規雇用の働き方は他人にお勧めできるものではない、大前提としてはね。
ちなみに断っておくと、僕は夜勤という比較的賃金が高い勤務形態で、当時眼に付いた求人のなかではいちばん時給が高かった職場で週30時間以下の労働しかしていないので、フルタイム以上でかつ仕事を選ばずに働けば、フリーターでも月収18~20万円は越えられるはずだ。
もっとも、僕が参考に挙げた月収15万円の暮らしには国保や奨学金の支払いは含めていないのだけど。
では、フリーターのこんな悲惨な働き方にどんな積極的な意義があるだろうか。
ひとつは、僕自身のきわめて個人的な理由、つまり、毎月の労働時間や時間帯、日数、自分が暮らすことになる土地などの自分でコントロールできる物事の自由度をかぎりなく増やせることだ。
たとえば、僕は前職の経験から週5日40時間のフルタイム勤務は心身に差し障りがあることを学んだ。
残業などもってのほかである。
平日最低8時間はマジメに仕事に打ち込み、勤務外の時間でも上司や雇用主などとメッセージのやりとりをし、職場では年配社員の妬みや嫉みの毒牙をかいくぐり、特定のパートナーがいるひとは相手が納得するレベルの家事をこなして心のケアをする……その後に残るのがあなたが自分自身のために使える時間とエネルギーだ。
僕の場合、仕事自体にも職場の人間関係にもマジメ過ぎたためこの手に残ったのが雀の涙ほどの何かだったことは周知の通り。
パートナーは自分が選んだ世界でただひとりの相手だが、大抵の場合、職場は違う。
また、僕は経験がないけれども、研修や異動というかたちで他人に自分の住む地域を勝手に決められるのも想像しただけで吐き気がする。
以前書いたように、京都のような暮らしていて常に発見がある楽しい地域にいるならなおさらだ。
もちろん、日本社会の半数以上の成人はこの正規雇用という心身のきわめて重い拘束も含めた労働力の提供をおこなっているので、わがままというか、客観的に観て異常なのは自分の方だとわかってはいる。
遡って振り返ると、僕がここまで自分の心身をコントロールできる状態にこだわるのは野球漬けだった高校生活が大きな影を落としている。
ほぼ毎日朝早くから通学し、帰ってくるのは夜遅く。
一週間のうち部活の休みは授業がある月曜日だけ……それも下校後には定評のある整骨院に通ってメンテナンスを受けないと身体がもたなかったので、約束された自由時間はその日の夜だけだ。
明日もあさっても1週間後も2週間後もその日自分が何をするかは自分の意思とは何も関係ないものに決められている――終わりない悪夢におもえた高校生活はその後9年間も!大人になっても部活に縛りつけられる悪夢として僕を苦しめ続けた。
最後の夏の県大会予選2回戦目に負けたとき、僕はだれよりも大きな声を上げて泣き続けた。
2年と半年もの時間をまったく無意味なことに棒に振ったからだ。
あのときのことは忘れないし忘れられない。
いつ死ぬかもわからないこの人生でだれが好き好んであの悲惨な枷の下に戻るというのだろう?
僕とは別の例も挙げておこう。
前の職場には飲食の仕事を掛け持ちして実質フルタイム以上の勤務時間で働く若い男性フリーターがいた。
彼の毎年の愉しみは、秋頃に約2、3週間の長期休暇を獲得してファーストクラスの飛行機でパリに飛び、1年かけて貯めたお金を使い食べ呆けること。
日本企業の正規雇用で働くひとたちの何パーセントが半月以上の長期休暇を毎年確保できているか僕は知らないし興味もないが、彼がなぜフリーターに留まっているかはだれの眼にもあきらかだろう。
ふたつめの積極的な意義はもう少し今のものよりも一般性がある。
ピーターの法則をご存知だろうか?
要するに、社会階層のある組織集団ではその構成員の能力に基づいて昇進が進むかぎり、組織集団の上の階層から「無能」で埋め尽くされていくというコミカルな理論だ。
- 能力主義の階層社会では、人間は能力の極限まで出世する。したがって、有能な平(ひら)構成員は、無能な中間管理職になる。
- 時が経つにつれて、人間はみな出世していく。無能な平構成員は、そのまま平構成員の地位に落ち着く。また、有能な平構成員は無能な中間管理職の地位に落ち着く。その結果、各階層は、無能な人間で埋め尽くされる。
- その組織の仕事は、まだ出世の余地のある人間によって遂行される。
via. ピーターの法則
もちろんこの理論には、構成員の能力の拡張が追い付かなくなる限りにおいてという但し書きが必要なのだが、中間管理職や経営者に無能さを感じることが少なくなく、組織集団のだれもが成長と学習に追いたてられていることからもその信憑性が肌身に感じられることだろう。
結局、現代人のだれもが、まともな脳を保持するかぎりPDCAサイクルという回し車をハツカネズミよろしく回しに回すよう求められているのが実情だ。
それも、無能という辛い壁にぶちあたり身動きがとれなくなるクラスに昇進するまで。
あなたが自分の仕事、個人事業主ではなくあくまで正規社員や非正規社員として賃金労働に勤しんでいるその仕事を天職とおもえるならそれも良いだろう。
僕はただ、明日たとえば交通事故かなにかで死の淵に瀕したときにまた不毛に時間を浪費してしまったと泣き叫びたくないだけだ。
ところで、ピーターの法則にはあまり有名でない続きがある。
階層社会学者のローレンス・ピーターはちょうど50年前に出版された本のなかで創造的無能を読者に勧めているのだ。
無能に陥った働き手はその現実を直視したくないあまり自分が怠惰なだけだと問題をすり替え、忍び寄る無能感に苛まれながら成果のあがらない仕事に打ちこんで心身を壊していく――その袋小路にハマらない方法は昇進を断ることだが、配偶者はそれを許さず家庭の恥とすらおもうだろう。
だったら、昇進されないように有能な働き手は無能を装えばいい、これがピーターの結論であり、前職を事実上のマネージャー職からドロップして無理やり退職した僕の結論だった。
実際に今の職場で僕が実践している無能4カ条を紹介しよう。
- 自分からは話しかけない
- コミュニケーションに感情をはさまない
- 愛想を振りむかない
- 業務内容の改善案を提案しない
この4つを厳格に守り抜けば、あなたがたとえどんなに有能な仕事ぶりだったとしても「仕事はできるけど何を考えているかわからないヤツ」「有能だが鼻持ちならない嫌なヤツ」として管理業務を任されることは少なくなり、管理職への昇進の話や正社員登用の話も持ちあがらなくなるはずだ――逆をいえば、昇進したいひとは僕が挙げた4つのことを裏返して実践すれば容易に昇進できるだろう。
この創造的無能の実践により得られるのは、心身を自分のコントロール下においたストレスの低い状態で毎日を快適に過ごせること、換言すれば、無駄な浪費を積極的に防いで自分が本当に打ちこみたいものへ注力できる時間とエネルギーだ。
たしかに僕は同年齢の正規社員よりも生活レベルは低く、所得も半分以下だろうが、精神障害を抱えながらも毎日幸せに過ごして情熱を燃やしながらいまタイピングしていられる、これは動かしがたい貴重な事実だ。
さて、ここまで読んだあなたは何を思うだろうか。
僕の結論からいうと、何らかの事情で時間とエネルギーを節約して労働時間をフルタイム以下に抑えたいと考えており、かつ、家庭をもったり仲間と遊びまわったりする哺乳類としての普通の幸せを放棄できるなら、フリーターという働きかたはリスクは高いながらかなり良い選択肢になる。
とはいえ、僕自身もいつまでもフリーター暮らしをしていたいわけではなく、ただ、前述の個人的な事情でたいした価値も見出せない賃金労働に自分の人生と自由を奪われ尽くされたくないだけだ。
おなじハツカネズミでももう少しマシなPDCAサイクルを回したいと思うのは不思議ではないだろうし、その回し車が自分で作ったものなら素晴らしいことだろう、そう思って今もこの反響が怪しそうな文章を書き連ねているし、これからも書き、創り続けるはずだ。
だから、若いひとがなんとなくという理由で非正規雇用に甘んじるのは決して勧められることではないし、反対に、無能の壁を感じながら今走っている回し車に疑問を覚えているひとにはフルタイム以下の勤務形態は仮住まいとして勧められる。
なによりも自由に使える時間と情熱を確保することがその向ける先を探したり実際に注力するためには必要だからだ。
もし、あなたが今いる社会集団のクラスに対して相対的に有能であり、その有能さを上級職の人間に認知されているならあなたはすでに無能への階段を登りはじめているといっていい、たとえあなたが非正規雇用の派遣社員やフリーターだとしてもだ。
創造的無能という半世紀前にひっそりと提唱されたあり方は、ひょっとしたらこの不幸な13階段の登りに待ったをかける現代でも有効なただひとつの方法かもしれない。