琉球古来の抒情短歌のカタチ
一度は離れた琉球文学にふたたび興味を示したきっかけを次回に書くと言いましたが、その出来事は曽祖母の葬式という湿っぽい話なのでやめておきます。夏は背筋の凍る怪談が、冬は心あたたまる恋バナが映えるのを思えば、湿っぽい話を湿っぽい季節にするのはあまり粋じゃない。話にも旬というものがありましょう。
文学に関する旬の話題といえば、先日候補作の発表された芥川賞でしょうか。目取真俊や大城立裕など、芥川賞を受賞した沖縄出身の作家は過去におり、受賞作のなかにも沖縄を舞台にした作品はありますものの、(たぶん)今回はなさそうなので特に触れません。その代わり、芥川賞つながりで、芥川龍之介と琉球文学の意外な共通点について書かせていただきます。
さて、とある男の少年時代の恐ろしい体験を描いた「トロッコ」や、田舎に住む姉弟(きょうだい)の別離の一場面を切り抜いた「蜜柑」など、モチーフを用いた巧みな心理描写で知られる芥川龍之介ですが、古典を下敷きにした制作にも長けていたのはご存知でしょうか。「杜子春」は中国の杜子春伝をもとにし、「鼻」や「芋粥」のような代表作もまた、今昔物語なり宇治拾遺物語なりから材を取っています。つまり彼は改作の名人でもあり、琉球文学との共通点はまさにそれ、国や時代を異にする作品をもとに独自の作品を生み出してきた点にこそあるのです。
とりわけ盛んに改作が行われてきたのは琉歌でしょうか。
琉歌という名前を聞いて、上皇、上皇后両陛下が作詞曲をなされ、在位30年式典で三浦大知さんが歌った『歌声の響』を思い出される方は少なくないでしょう。そもそも琉歌とは何かと言えば、琉球方言で表現される定型歌謡のひとつで、八・八・八・八調や七・七・七・五調の歌もありますが、基本的には『歌声の響』のような八・八・八・六調(サンパチロク)が主流となります。ただし、伝統的には三線の伴奏にあわせて詠まれることが多く、たとえば、下記のリンクで詠まれている恩納なべの琉歌などは三線の音に乗ることで、恋人から遠く隔たれた女性の心情が一層ものがなしく聴こえます。
琉歌の起源がいつなのかは明確に判っていませんが、江戸の儒学者だった荻生徂徠の『琉球睥使記』(1710年)に三首の琉歌が収録されていることから、少なくとも十七世紀には存在していたと言えるでしょう。それどころか、サンパチロク調の琉歌的な詩は尚円王(1415〜1476年)の時代から存在していたと主張する研究者もいますから、もしかしたら『おもろさうし』の編纂よりも早い可能性すらありえます。とはいえ、おもろから影響を受けた琉歌は数多く、たとえば、『おもろさうし』第九に収録されているおもろなどは原型を強く残したまま琉歌に改作されているのです。
■琉歌
北かぜの真北 ふきつめてをれば ニシカジヌマニシ フキィツィミティヲゥリバ
按司添前てだの 御船どまちよる アヂスイメティダヌ ウニドゥマチュル
(北風が真北から吹き付けているので、北の薩摩におられる太陽なる国王の御船を待っています
■おもろ
真北風が まねまね 吹けば
按司襲いてだの
御船ど 待ち居る
追手が 追手ど 吹けば
国王讃歌なのは訳を読めば一目瞭然なのですが、用語と読み方に関しては簡単な補注が必要かもしれません。
紛らわしいことに「北」は「ニシ」と読み、「按司添」(按司襲い)は「国王」を意味し、「てだ」は前回説明したように「太陽」を指します。国王が薩摩に出向いた理由は、1609年に薩摩藩島津氏の侵攻を受けて支配下にくだり、貢納や使節派遣の必要があったからでしょう。地域差はあれど母音も少々特殊であり、「あ・い・う・え・お」の母音はそれぞれ基本的に「あ・い・う・い・う」に変換されます。ですので、たとえば、思いは「ウムイ」であり、心は「ククル」、雨は「アミ」、船は「フニ(ウニ)」と読むのがならわしです。
おもろから琉歌への改作の効果としては、本来不定形で表現されていた言葉を定型におさめることで、表現上の無駄が省かれリズムにも締まりが出るあたりでしょうか。とはいえ、琉歌の発展に寄与したのはおもろだけではありません。薩摩藩の侵攻以降は和歌の影響が顕著にあらわれ、和歌の改作琉歌も多く詠まれています。
■琉歌
常盤なる松の 変わる事無さめ トゥチワナルマツィヌ カワルクトゥネサメ
何時も春来りば 色ど勝る イツィンハルクリバ イルドゥマサル
(常緑樹の松は変わることがない。いつでも春が来れば鮮やかに緑を増して美しいのだ)
■和歌
常盤なる松のみとりも春くれは 今一しほのいろ増りけり
(常磐と呼ばれるように普段は変わらない松も、春が来れば一段と緑が濃くなるのだ)
元ネタである源宗于朝臣の歌は皇后主催の歌合で詠まれたもので、松と皇室を重ね合わせています。よって、永遠に素晴らしい皇室でも時節に応じてより素晴らしくなるという意味合いの賛歌なのですが、改作琉歌ではニュアンスが微妙に異なっており、春のおとないの度に美しくなるという意味において松は不変なのだと言います。皇室を称揚する意図がうかがえる和歌の方は詠み手との距離が近く、どことなく体温のようなものを感じますものの、特定の他人に宛てられていない琉歌はそのぶん俯瞰的です。ひとによって好みが別れるところでしょう。
中国と日本の二重支配を受けていた琉球王国は漢文学と和文学を受容し、漢文は公文書で多く使われてきた一方で、大和言葉は主に創作に用いられてきたようです。今回は改作琉歌のみを紹介しましたが、たとえば、私が個人的に「琉球のシェイクスピア」と呼んでいる平敷屋朝敏などは和文による悲劇物語を書くなど、他のジャンルでも影響は見られます(平敷屋朝敏は王府に楯突いて処刑されるなどエピソードに事欠かないので、今後紹介する機会があると思います)。様々な影響関係を探ることもまた、琉球文学研究の醍醐味のひとつなのかもしれません。
最後に与太話をひとつ。
歴史は繰り返すと言うべきなのかどうなのか、多くの古典を改作してきた芥川龍之介ですが、今春放映されていた幾原邦彦監督のアニメ『さらざんまい』は芥川の「河童」という中編小説を意識していると思われます。原作とおなじく河童が登場するのは無論として、人間社会とよく似た景観の別世界が登場したり、河童が蛙に間違えられるのを嫌ったりと設定上の共通点もいくつかあります。思想的な影響も色濃いのですが、本稿のテーマから外れてしまう上に記事2〜3本くらい書けそうな量になるので紹介はやめておきます。
もちろん、これまでの作品でもパロディを数多くしてきた幾原監督ですから、他にも様々な作品を下敷きにしているのは間違いありませんが(ジャック・ラカンの欲望に関する思想にも影響を受けているという読み筋すらあります)、「河童」は主要な引用元のひとつですので芥川ファンは考察するのも一興かもしれませんね。