批評の基本とはなにか?
前回の記事では、霊域が自然と人間の力線が交わる特殊な場であり、近代以降、懐古趣味的なロマンティシズムに覆われた自然と人間の関係を問いなおすあたらしい概念だと、新熊野神社という観阿弥・世阿弥とゆかりある神社を例に書いた。
今回はその新熊野神社ともうひとつ別の小さな神社を比較することで霊域の質の違いを考えてみよう。
劍神社は、新熊野神社のある東大路通りを少し南へ下ったところから東山へ登る道の途中にある。
創建年代は不明だが、平安遷都の折に王城鎮護のためにこの地へ宝剣を埋めたとか、もともと高貴人の葬送地だったため偶然発見された剣を奉祀したなどと由緒でいわれるように相応に古くはあるらしい。
劍神社を訪れて驚くのは、住宅地に囲まれた小さな敷地ながら清潔感のある上品な霊域だということだ。
Pictured by Chika Hitujiya
霊域は実に批評的な概念だ。
霊域とそうではない空間、たとえば、生活の場だけでなく、河川敷や公園、交通路、空き地や野山との違いはもちろん、みかけは同じ寺社仏閣との空間的な質の違いを問題にする。
そして、物事の質の違い、つまりは良し悪しを判じるのが批評の領分だ――もし、この言い方に違和感を覚えるなら、以前、レッド・デッド・リデンプション2の国内レビューをメタ批評しながら、批評が、感想や解説、解釈とは領分が違うことを解説したので参照してほしい。
当然、批評とはそもそも何なのかという議論が多少とも必要になるだろう。
3年前の春、京都の土地の高低差と人間のケガレへの感覚について雑食動物のジレンマというテーマで書いた。
今でも批評を無効とする見方――作品に良し悪しはなく、個人の好き嫌いがあるだけだとするナイーヴな価値相対主義は散見されるが、皮肉なことに雑食動物の僕たちにとって眼前の食料が良いか悪いか、食糧として食べられるか否かはいにしえからの死活問題だ。
批評の基本は、チョコレートやラーメンが好きかどうかではなく、自分の眼のまえにいまあるものが美味しいかどうかというイメージや先入観の排除にある。
つまり、ゴダールの名声も、吉本隆明の韜晦も、あるいはハイデガーの謎かけめいた修辞もそれ自体は彼ら彼女らの質の良さをなんら保証するものではなく、むしろそうした装飾物や社会的通念、自分の好みや権威主義に由来する期待の前提を積極的に排除し、今眼のまえにあるものを虚心坦懐に観ることが必要だ。
甘い飲みものが好きだからといってファミリーマート限定タピオカミルクティーの茶葉の薄さやぶにぶにとしたタピオカの気持ち悪い食感を容認できるわけではないし、難解なものが好きだからといって小林秀雄の悪文やモーリス・ブランショの空疎さを許容することも、スプラッター映画が好きだからといってクエンティン・タランティーノと園子温の映像表現を混同することとは違う。
ひとことでいえば、批評とは眼のまえの料理にひとさじ分の塩を入れる前と後の違いを感じとることであり、究極的には食糧がまだ腐敗していないかどうかを見極めるようなものだ――そう、霊域にも腐敗した場所があり、時としてスピリチュアルな場として持ちあげられているがそれはまた別のお話。
Pictured by Chika Hitujiya
批評の基礎は比較だが、この批評における比較は本質的にダブル・ミーニングだ。
以前、クロワッサンの食べ比べに関する記事で、批評には潜在的批評と顕在的批評、つまり、センスとして直観的になされる批評と検証可能な方法として理性的になされる批評の2種類があると書いた。
後者の顕在的批評の意味での比較は文字通りだが、前者の潜在的批評の意味での比較は少しわかりづらいかもしれない。
○○はこうあってほしいという期待やこうあるべきという社会通念を外したとしても鑑賞対象はまっさらな紙の上に載るわけではない。
これまでの価値判断の経験に彫琢された心的イメージの上で過去の記憶と比較されてしかるべき場所に配置される――潜在的批評の比較とは記憶のなかでの位置付けだ。
したがって、観賞と批評の経験を自覚的に積んでいればこの心的イメージがより広くより細やかで、特定のジャンルに偏り過ぎることなくバランスもとれていることもままあるが、記憶上の比較があくまで直観的にしかおこなわれず、批評ができるひと同士でもその心的イメージには大なり小なり趣味嗜好の偏向があるところに批評の主観性の問題がある。
もちろん、顕在的批評という方法としての比較が、自分の価値判断を第三者にひらくかたちでその主観性を打ち消す作法なことは前述の記事で書いたとおり。
しかし、方法論以前に、自分の感覚を反省し、価値判断の根拠に疑いをもつための俯瞰的思考を可能にする文明人の知性が批評には欠かせない。
俯瞰的な知性とはなにか――これは文明史上の大きな問題なため本記事中ではあまり深入りしない――とはいえ、世のなかの多くのひとは特定の他者やそのひとが帰属する社会集団内での自己評価、つまりは自己保身に汲々とする一方で、そうした環境依存的あるいは他律的な状態を抜けだし、なんらかの秩序体系に則って自分自身を律した言動をとれるひとたちも少数なが