琉球王国の遺産 “おもろさうし” をひらく
「俺にはマイクしかねぇ」
かれこれ3年くらいフリースタイルダンジョンを観ているからかヒップホップを好きになり始めている一方で、バトルでよく言われるそんな感じの啖呵だけは未だに納得できません。
自分の存在をあらわすことがラッパーの一分なのはよく解るし、マイクほど達者にペンを握れない方もいれば、いわゆる「会社」や「世間」に中指を立てている方が多いのも知っていますが、それでもなお、マイクを手離しても大体のひとはなんだかんだ生きていけると思えてならない。もちろんそれは作家や画家などのラッパー以外の表現者にも言え、作品制作こそが存在意義など大袈裟もいいとこ、その活動を続けられなくなっても他の仕事でそれなりに人生を過ごせるはずなのです。
いやいや、そりゃあ生命活動は続けられるとしても、そのひとの中で大きなウェイトを占めているラッパー(作家、画家)としての側面は死ぬでしょうという御批判もあるでしょうが、ちょっと考えてみてください。
そのひとたちは24時間365日制作していますか?
むしろ飯を食ったり本を読んだり遊んだり、ときにはおセックスに耽ったりしている日常生活の方が大半を占めているはずで、生活態度や他人へのふるまいなどの無意識の自己表現は充分なされているのでは?
得意なことをしているときの自分こそ本当の自分なのだと、勝手に思いなしているだけでは?
「俺にはこれしかねぇ」系の主張が本当に許されるのは、生命維持装置に繋がれた重篤な患者のような彼岸と此岸のあいだに立つ者だけでは?
もし若手ラッパーと生命維持装置に繋がれた重篤な患者がフリースタイルバトルをしたとして、前者が「俺にはマイクしかねぇ」と言い張ったところで、後者が「俺には生命維持装置しかねぇ」と返したらもう試合にならないわけですよ。説得力が違いすぎて完全にクリティカル。電源を切ったら本当に死んじゃうもの。
という具合に、思い込みで拵えたアイデンティティに縋る人をひややかに見ていたのですが、他人のフリ見て我がフリ直せないのもまた人間。かくいう私も御多聞にもれず、かなしきかな、「俺にはこれしかねぇ」と言ってみたいがために琉球文学にすりよったのでした。
なぜにいきなり自虐みたいな告白をしているのかと言えば、ゲームを中心に幅広いジャンルを批評するブログを運営している友人の羊谷知嘉に、「琉球文学との出会いを書いてくれ」と依頼されたからに他なりません。
もちろん、10年来の友人の頼みですから、感動できるエピソードを提供したい気持ちはありました。「おもろさうしを図書館でたまたま手に取ったときに思ったんです。この喪われゆく素晴らしい文化を少しでも後世に遺したいって……」などとロマンチックに語り、あわよくば文芸クラスタからの賞賛も得たかった。しかし、そのような志は、教育をろくに受けていない在野の私ではなく、然るべき機関で研究している方にこそ抱いて欲しいし、まあ、実際そんな気持ちは微塵もないのです。
そもそも、であります。
これまでの人生を振り返ると突拍子のない行動が多いのですが、その理由は自分が何者なのか知りたいからという一点に集約されます。
カロリーメイトだけで一ヶ月暮らしたのも身体の限界を知りたかったからだし、
小説や詩を書きはじめたのは本心を知りたかったから、
虫や星空に欲情する自慰行為は精神の限界を知りたかったからです。
だからこそ、沖縄に住んでいる父方の祖父が『おもろさうし』と呼ばれる沖縄古謡の研究者であると知ったとき、琉球王府の編纂したその歌集が、何かにつけて優柔不断で地に足の着かない生き方に根拠を示してくれるのではないかと胸を躍らせたのでした。もし混沌とした世界観やひとびとの困惑が詠まれていれば、沖縄の血が半分流れている私もその性質を売りに生きていけばいいのですから、これほど楽な話はありません。
そんなよこしまな理由で『おもろさうし』の原典や研究文献を読みはじめたのですが、その古典は果たして「優柔不断で地に足の着かない生き方」を正当化し、延々と繰り返された自分探しに終止符を打つような内容だったのでしょうか。
via. 沖縄の世界遺産シリーズ1【勝連城跡】
残念ながら答えは否どころかむしろ逆。驚くべきことに『おもろさうし』に収録された歌の大半は、琉球王国が厳然な制度に則っていることを示す歌ばかりだったのです。
たとえば、『おもろさうし』第一巻の冒頭におさめられた歌を読んで頂きたい。
聞得大君ぎや
降れて 遊びよわれば
天が下
平らげて ちよわれ
鳴響む精高子(とよむせだかこ)が
首里杜ぐすく
真玉杜ぐすく
訳:名高く霊力豊かな聞得大君が、首里杜ぐすく、真玉杜ぐすくに降り、神遊びをし給うたからには、国王様は天下を安らかに治めてましませ。
(原文、訳ともに岩波文庫版『おもろさうし 上』より引用)
なじみのない言葉がいくつかあると思われるので簡単に解説すると、聞得大君は琉球王府におけるもっとも地位の高い神女のこと、鳴響む精高子は聞得大君の別称、首里杜ぐすく・真玉杜ぐすくは首里城内の聖域です。つまり、琉球王国においては宗教と政治が密接に結びついており、太陽神の依代とも見做される聞得大君が、国王に負けず劣らず大事な役割を担っていたことが示されているわけですが、なんと言うか、祭祀を重んじた王国の強固な世界観を感じざるを得ません。
ちなみに、琉球語で「てだ」と呼ばれる太陽は神聖さの象徴にほかならず、日の出の光景を美しい語彙と音律で詠んだ歌も『おもろさうし』に収録されています。国王、聞得大君、太陽、美、神という概念が強固にむすびつき、それらを中心に構成される『おもろさうし』の世界観は優柔不断とは似ても似つかず、私の最初のもくろみは脆くも崩れ去ったのですが、とある出来事によりふたたび琉球文学に向き合うことになるのでした。
その話はまた次回。