創作の黄金律:数打ちゃ当たる
動画内で僕が語っていることだが、遅筆も自信のなさもすべては自分自身の質を判断できる(その正確性は問わないとしても)能力の高さに起因する。
文章を推敲するのも自信がもてないのもその質の低さが気に障って仕方がないからだ。
実際には、物事の質を判断するという能力、正確にはそれを可能にする知性の俯瞰的視点をもてないひとは非常に多い。
考えてみてほしい。
映画にせよ、小説にせよ、音楽にせよ、ゲームにせよ、個人の好き嫌いや背景知識の解説を越え、対象の良し悪しを根拠を明示して論じるという意味での批評が日本になんと少ないことか。
批評やレビューと銘打っていても実際にはその体を成していないものが多いことは傑作ゲームRDR2の国内レビューを例に以前書いたとおり。
そして、世に批評が少ないことはすなわち、有能な書き手よりもそれを求める読者=書く側のインセンティヴが決定的に乏しいと考えて差し支えないだろう。
文章の書き直し癖も表現者として自信をもてないことも要するに、自分のなかで高いハードルを持ちかつ今の自分と表現がその域に到らないことを俯瞰的に捉えていることに拠るので、文明人としてのまともさを証しているといえる。
この場合、真に問題なのは、物事を俯瞰的に観られるだけではそれを押し進めて難所を突破する――仮設を立て、検証し、物事の解決へと近付くことができないということだ。
唐突な告白だが、日本語中の約物が嫌いだ。
日本語なら絶対縦書き派の僕は()も「」も極力使いたくないし、許されるならば、も。この世からなくしたい。
だが、このブログでは――を頻用しているじゃないかとお気付きのあなたは眼が敏い読者だ――正確にはブログの再起動後からだが。
僕の文章中における――の頻出は、執筆時の思考の連鎖をスムーズに書き連ねるための(美的観点からは)妥協の産物の印だ。
というのも、自分の思考ないしイメージを叩きつけるのは間違いで、鑑賞者視点を踏まえ、鑑賞者のうちに意味構成が起きるよう自分の表現を作るのが創作論的にはただしく、あなたもきっと読みやすいだろうが、なにぶん、自分の文章の作品としての完成度を高めるのは推敲の数が増えるため時間を喰いすぎる。
結局この文章は縦書きではないしブログ記事のひとつなんだから……というわけで、僕自身に根深くある遅筆癖を克服するためにルール付けしたのがこの――の多用だ。
日本語の視覚的美しさを(ある程度は)放棄する、芸術的な良さも(ある程度は)諦める、だってこれは無料のブログ記事のひとつに過ぎないのだから……というわけだ。
そもそも、ウェブの無料テキストの基本戦略はSNSでのバズりを狙うことと Google での検索ヒット率を高めることの2つで、前者は賛否両論のわかれるホットなテーマで超が付くほど読み易い、つまりは中身が薄い文章を書くこと、後者はSEO(検索エンジンへの最適化)対策は前提のうえで人気のトピックをもとに相応の分量を書くことが基本戦術にあたる。
だが、いずれの場合にも絶対無比の黄金律がある――数打ちゃ当たる、だ。
via. Barton Fink
バズ向けの読み易い文章もSEO対策もその成果を絶対に保証するものではない。
読者が好んでシェアしてくれるか、検索エンジンが順位を上げてくれるかが究極的には神のみぞ知る世界だとしたら、それらの対策も結局は成功確率を僅かながらあげるに留まり、必須戦術としていかに試行回数を増やしていくかが次の課題になる。
もちろん、自分のその試行に意思と事後評価を付け