――背中痛いから 今日モウ 帰ってイイ?
三十路でおない年のスリランカ人留学生にそう聞かれたとき、僕は思わずウッと唸り、彼の暗褐色の頬を殴りつけようとする右腕を慌てて抱えこんだ。
――腰じゃなくて、背中?
僕はそうひとりごちた。
何事も始めることより片付けの方が大変なように、コンビニの深夜勤務は意外にもたいへんな仕事だ。
というのも、人件費を極力抑えようとする経営者であれば、朝昼夕のシフト帯に比べて客足の変動率が少ない深夜帯は人員を絞っているはずで、そのうえで1日のお店全体の仕事の仕切り直しをこなして新しい朝を迎えないと帰れないからだ。
格好良くいえば、コンビニのしがない深夜マンはそのお店のアンカーを担っている。
だから僕は、彼の早退の訴えをきいてまず反射的に、仕事を終われるのかと考えた。
時刻はまだギリギリ日付変更線を跨いではいないうえ、一般的にはすでに就寝の準備に入っているため代わりの救援を望むこともできない。遅すぎず、早すぎない、なんとも絶妙に厄介なタイミングだった。
――じゃあ15分だけ休んで、様子見て、ダメだったら帰ろう
――終電近い イマ帰る
スリランカ人の彼との楽しい思い出が走馬灯のようにフッと蘇ったのは、たぶん、アドレナリンが脳内で火を噴いたわけでも拳に鮮血の滴りを感じたからでもなくて、京都に引っ越してきて4年、初めてにして唯一の友だちが彼だったからだろう。
バッファローの乳が「メチャクチャ、ウマい」と教えてもらったのも今となっては良い思い出だ。
自分が学んだ分野や特技を振り回すことほどダサい振る舞いはなく、不慣れな領域に挑み、初心者として人々の前に姿をあらわし続けることが格好いいという美学があるので、その美学に則り、これからまた三年間は新しい修行を始めたいと思っています。
— 日常 (@supply1350) 2019年2月2日
ということで、新天地としてオタク文化を選ぼうと思っていたのですが、その決心から二ヶ月ぐらい経った現在では「オタク文化ってじきに滅びるのでは」と感じています。なので、オタク文化の次に来る新しい文化についてなにか少しでもご存知の方、教えてくださると本当に大変助かります……
— 日常 (@supply1350) 2019年2月2日
デジタルゲーム
— 羊谷知嘉 Chika Hitujiya (@hail2you_cameo) 2019年2月2日
デジタルゲーム文化、人口は増えていくとは思うのですが……今はまだあまりピンと来ていません。
— 日常 (@supply1350) 2019年2月2日
1.非伝統性――大衆文化に対し、強い情熱と繊細な趣味、専門知識を有する
毎週ジャンプやマガジンの発売を楽しみにしているキッズを”オタク”というだろうか。
彼らが特定の領域に高い情熱をもち、専門知識と対象の微妙なニュアンスにも趣味をもつことに異論はないだろうが、問題はそれが”マニア”とどう違うかだ。
僕が考えるのは、マニアがその語源をギリシャ語にもつことからわかるように、オタクの専門領域は比較的新しい大衆文化に属する。
漫画オタク 漫画マニア
アニメオタク アニメマニア
アイドルオタク アイドルマニア
オタクの定番だが、比較的古い語であるマニアを使うにはいずれも違和感が強い。アイドルが偶像という名の創作物なのはいうまでもないが。
また、男性の手首や鎖骨、女性のふとももなどのフェティシズムがあるが、鎖骨オタク、脚オタクとはいわないが、手首マニア、足首マニアにはさほどの違和感はない、サイコの響きはあるけども。
つまり、オタクの趣味は自然にあるものではなく創作物、それも非伝統的な大衆文化を対象とする。
認めなくてはならないことだが、高尚な趣味と低俗な趣味の差はグレーゾーンをともないながらも厳然としてある。
たとえば、日本では伝統的に”道”がつくお茶やお花や香りの趣味は一定以上の社会階級に属すれば躾として教えられるだろうが、漫画やアニメやアイドルが教養として親や教師から叩きこまれるとはなかなか想像しがたい。
反対に、映画や写真や小説は比較的新しい創作分野であり大衆文化に属するが、20世紀の思想界から華々しい脚光を浴びた経緯があるため社会階級の上流と下流のどちらに属するかはきわめてあいまいで、オタクとマニアのいずれも違和感なく呼ぶことができる。
クラシック、つまり西洋の古典音楽は紳士淑女の嗜みだがアニソンが高級サロンで流れることはない。
卑小や下賤、猥雑といった下層階級の自覚のもとで闘われたロックやヒップホップもあるが、音楽でいちばんのグレーゾーンはそれらより年長だが比較的若いジャズだろう。
ロックマニアもヒップホップマニアも語感が気持ち悪いが、ジャズであればどちらもいける。
いずれにせよ、オタクをただのマニアに比して特徴付けられるのはその非伝統性だ。
2.非職業性――消費社会の経済的豊かさと平和
古来より歴史に並々ならぬ興味をもったひとは掃いて捨てるほどいただろうが、上述の次第で、歴史オタクやその女性版の歴女という呼び名には最近のゲームやマンガの歴史系創作物を好むニュアンスが色濃くある。
では、歴史マニアという呼び名が一般的かというとそうでもない。
というのも、文明史1万年前後の歴史のなかでは、特定の社会集団で何かに専門特化するには当然何らかの社会的、正確にいえば権力構造からの要請があり、歴史に詳しいひとはすなわち歴史家や歴史学者として自国や自集団の歴史を物語り、叙述し、自分たちのアイデンティティとその由緒正しさをあきらかにする職務を負っていたからだ。
マニアもそうだがオタクの語にそうした職業的な含意や政治的なニュアンスはない。
彼らは今でいう大学や職業訓練所で養成されるのではなく、各人の興味関心と趣味性、なによりほとばしる情熱により、日々の糧を得る生業の外でいわば道を究めていく。
今日ですら、好きなことで生きていく(笑)難しさが皮肉にもあきらかにしているように、オタクとは、本人の職業上の理由とはまったく無縁な専門家だ。
映画監督が映画オタクなのはある意味で当然であって、職業上の理由から専門分野の習熟がもとめられるひとをその分野のオタクやマニアと呼ぶ場合があるのはその責務におさまらない私的情熱が同業者より燃えているからだろう。
ある意味でというのは、20世紀半ばにはアウトサイダー・アートとして西洋の伝統的な美術教育の外の者の作品がその出来不出来を問わず美術的価値を認められたことが象徴するように、クリエイターが専門の知識や技術、経験をもたないでもそれとして公的に認められるようになったことによる。
同様のことは外科医やパイロット、アスリートの様な、アウトプットの良し悪しがだれの眼にもあきらかな分野には起きていないことを考えたら、創作物の価値が何らかの理由で見極められなくなっただけなのだろう。
いまでは、商業上の理由でお笑い芸人やラッパーがマイクの代わりに絵筆を握ったり、膨大な数のひとたちがスマホを片手に写真や映像作品を公開して評しあったりしている。
もっともこのオタク論も、とあるコンビニアルバイターが深夜の休憩中に参考文献ではなく廃棄商品を片手に書いたものだけども。
閑話休題。
ひょっとすると、オタクの成立という観点ではこの非職業性という特徴がいちばん重要かもしれない。
というのも、オタクという呼び名が流行語になるくらい新しいタイプの非職業的な大衆文化の専門家が大量発生するには、国民が労働と生活以外のことがらにも相応のお金と時間とエネルギーをかけられるほど国が裕福でありかつ平和なことが必要だからだ。
つまり、非職業的な専門家はいつの時代も特権階級や富裕層でなら大なり小なりいたが、大衆文化を素直に好みやすい中間層にまでその幸福追求の消費活動のための経済的自由が許されていることがオタクの成立には必要だった。
周知のとおりオタクはもともと平仮名のおたくであり、この語が一般的に広く知られるようになったのが高度経済成長後の安定成長期であったのはその意味で注目に値する。
ウィキ先生によれば、この頃に実体経済としての「一億総中流」がはじまったらしい。
今では日本の格差社会の現実を隠蔽する幻想として忌み嫌われている感のある標語だが、控えめにいってもこの頃には日本も消費社会に突入し、彼の時代の申し子のひとりとしておたくが生まれたことは無視すべきでない事実だろう。
記号?
物語?
データベース?
道端の犬にでも食わせておけ。