子どもの頃の悪夢の切れ端がいまでも視界に映りこむように、何気なく観た映画のワンカットがあたまの片隅から離れなくなることはたぶん珍しいことじゃない。
ウイルスのように、数年間の潜伏のあとに僕の瞳を住処としだすのは日頃の行いが悪いからじゃない。
最近悩まされるのは、マッツ・ミケルセンの頬だ。それも、フェドラ帽で表情が隠れ、鳥肌のようにぶつぶつと脂汗が浮かんだ左の頬。たぶん、車の中だったはずだ。
デンマークの至宝と喩えられるマッツの肌に悩まされるのは僕がゲイだからではなくて、日本では無名の彼の主演作、オーレ・クリスチャン・マセン監督の『誰がため』という戦争映画の暗鬱とした色彩表現の格調高さにある。
学生時代の僕は映画に凝っていて、年間100本は観ていたはずだし、クリスマス・イブの夜を、正確にはそのひと晩を、シャイア・ラブーフ主演の方のトランスフォーマー3部作の全視聴に独り費やしたりしていた。
今ではしがないコンビニ店員で、当時のように映画の暴飲暴食はできないけれど、映画狂いのときに強く魅せられたほんの数人の俳優の最新作を観ながらふと、溢れんばかりだったあの時間を、せめてクリスマス・イブのいわゆる性の6時間をなにかもっとマシなことに使えていたら僕の人生はなにかもっとマシなものになっていたのではと思わないではない。
ちなみに僕はゲイじゃない。
2016年からUSAネットワークで衛星放送している海外ドラマ『コロニー』は、アメリカ陸軍特殊部隊からFBIを渡り歩いた主人公ウィル・ボーマンとその家族が、謎の超知的生命体に侵略され、彼らに奉仕するようアルゴリズムを用いて組織された暫定政府の軍事統治下をサバイブする人間ドラマを描いたいわゆるディストピアものだ。
異論はあるだろうけども、僕はこのドラマを“ポスト・アポカリプス”に分類するのが適切だと思う。
エイリアンの襲来数時間後、上空から巨大な壁がいくつも降ってきてロサンゼルスを、少なくともこのドラマの舞台となるLAはいくつかのブロックに仕切られ、世界政府の許可なくしてはレッドハットと呼ばれる治安部隊の検問を通過することができないようになってしまう。
シーズン1は、自動車の整備工に扮していたウィルが襲来時に生き別れとなった幼子チャーリーを捜しにサンタモニカへ潜入を図り、失敗し、レッドハットに捕縛される場面にはじまり、紆余曲折を経て手に入れた正式な通行証をもって再度救出しにゆく場面でおわる。
ウィルたちの住むロサンゼルス地区は、スマホやパソコンのような情報機器の所持と使用は制限されているとはいえ、この地のブロック長アラン・スナイダーの穏和な施政によりわりあい文明的な暮らしを保っていたが、ほかのブロック、たとえばチャーリーのいるサンタモニカなどでは暫定政府とギャングが取引をして事実上の無政府状態に晒されてもいる。
小説の世界は知らないが、人類の文明社会の崩壊を描くアポカリプスもの、その後の荒廃を舞台にしたポスト・アポカリプスものは映画やTVドラマ、デジタルゲームといった映像メディアとすこぶる相性の良い物語設定だろう。
今話題の作品を例に挙げれば、核戦争後のロシアを舞台にしたメトロシリーズの最新作『Metro Exodus』、アメリカのモンタナ州の架空の郡を舞台にした前作からさらに北朝鮮の核攻撃を経た17年後の『Far Cry : New Dawn』、そして、殺人ウイルスのパンデミック後のワシントンD.Cを実際の地理情報システムを用いて再構築した『Divison 2』などから、人間の探索欲求を刺激するオープンワールド型のゲームシステムとのシナジーの高さがうかがえる。
理屈で考えれば、3DCG技術を潤沢につぎ込んだ映像を4D画面で展開できる映画というジャンルはアポカリプスものと相性が良いが、比較的低予算な場合には文明崩壊のシーンやその原因を極端に短くしたりぼかしたりできるポスト・アポカリプスの方が好まれるはずで、海外ドラマのコロニーがストイックなまでに壁外や超知的生命体とその侵略の描写を切り詰めているのはその典型だろう。
個人的な好みで今話題の映画作品を挙げるとしたら、公開10周年記念にあたる今年10月半ばに続編公開を控えたルーベン・フライシャー監督のコミカルなロードムービー『ゾンビランド2』だろうか。
ちなみに本作主演のジェシー・アイゼンバーグは僕の好きな俳優のひとりで、ひと癖もふた癖もある役どころを微妙な塩梅で演じることの上手い役者だがもちろん僕はゲイじゃない。
エマ・ストーン(笑)
#10YearChallenge? Challenge Accepted.