世界中で話題沸騰の実話ドラマの評価
批評にはためらいや懊悩が付きものだ。
言語という借りものでしか思考を現せない以上、1度表現してしまえばもう2度と自分の管理下にもどることはない。
テキストを切り刻み複製することに長けたこのご時世ならその逡巡もなおさらだ。
僕の場合、作品のカタチと中身、そしてコストとのバランスに悩むことが多い気がする――カタチとは芸術性に関わる部分、中身とは、作品のテーマや物語といった社会性ないし文学性に関わる部分、コストはそのまま時間とお金、エネルギーの消費量。
たとえば、ピエール・エルメの1個300円のマカロンをわざわざ美味しいという気にはなれないが、近頃のタピオカブームの前から京都駅近くにあったお店のタピオカミルクティーは、ブームの火付け役、某F社の紛いものと同価格でありながら本物の味わいに感動できるコストパフォーマンスに優れた代物だ。
先日観終えたドイツのネットフリックス・ドラマ『ダーク』は、ドイツ作品にありがちなテンポの悪さが気に障って最初は観続けるかどうかだいぶ悩んだが、脚本の妙に魅せられておもわず全20話をたった2日で踏破してしまった。
一方、先月公開されたニコラス・ウィンディング・レフン監督の Amazon オリジナルドラマ『トゥー・オールド・トゥー・ダイ・ヤング』は、ドラマ史上類をみない影像表現の美しさは認めつつもあまりに遅滞した物語進行に2、3話で音を上げている。
レフン批評には興味があるのでひょっとしたら再挑戦するかもしれないが、寝落ち回数記録が2桁を越えないか今からすで電気代的な意味で不安だ。
今回僕が採りあげる作品、今年のエミー賞にノミネートされた全4話構成のネットフリックス・ドラマ『ボクらを見る目』もそうした芸術上のバランスの問題に最初はあたまを悩ませた作品だ。
――うーん、悪くはないけどちょっと映像表現のレベルが、物足りないかなあ……?
社会人のミッションは常に時短とアウトソーシング、つまりは日々のタスクの効率化だ。
いつものように開始後5分以内の一時停止とブラウザバックをキメにかかろうとしたが――僕は大抵1、2分で観るべきかいなかをきめる――、気が付けば夜の出勤前にこの作品の物語に泣き晴らして現実の痛烈さに打ちのめされている僕がいた。
1989年4月19日深夜のニューヨーク、日本ではほとんど知られていないが、80年代のアメリカで最も有名な凶悪犯罪のひとつとしてその後に認知される陰惨な事件がセントラルパークで実際に起きていた。
翌20日午前1時半に公園内の森で発見されたのはジョギング姿の意識不明で血塗れの若い白人女性ーー血液の7、8割が失われ、頭蓋骨が粉砕し、猿轡を噛まされ、強姦された形跡も残る発見当初の彼女を観た警察官はさながら拷問を受けたかのようだったと語る。
被害者の名前はトリシャ・メイリ。
当時28歳だった彼女はアメリカの有名家電企業のシニアマネージャーの父をもち、名門女子大のウェルズリー大学の経済学部を卒業、イェール大学のMBAを取得し、ある投資銀行の財務部門のヴァイスプレジデントとして働くまさに絵に描いた才女だった。
目撃者なし、被害者の意識なしで一見捜査は難航するかにおもえたが、意外や意外、事件発生から2日後にはニューヨーク警察が12人の少年がこの殺人未遂事件に関与しているという見立てをプレスリリースし、本作の主人公であり後に「セントラルパーク・ファイブ」の悪名高い名で知られる5人の少年たちがすでに逮捕され勾留の身となっていた。
簡単に紹介しておこう。
アントロン・マックレイ
事件当時15歳。将来の夢はメジャーリーガーだったが6年間の少年刑務所での服役によりその夢は絶たれることに。この事件により壊れた父との関係で今も癒えぬ深い心の傷を負う。
ケヴィン・リチャードソン
事件当時14歳。トランペットの演奏に情熱をもっていた。額の傷を暴行の際に受けた被害女性からの抵抗の痕とみられ、彼のみが殺人未遂罪にも問われて約7年間少年刑務所に服役した。
レイモンド・サンタナ
事件当時14歳。色男。少年刑務所に服役後、強姦魔と蔑まれながら義理の母の家でその大家族と暮らすことになる。ちなみに彼の父役を演じたのは名優ジョン・レグイザモ。
ユセフ・サラーム
事件当時15歳。7年間の少年刑務所での服役中は所内のイスラム教徒コミュニティの精神的指導者として過ごし、宗教の勉強を続けた。
コリー・ワイズ
事件当時ただひとりの16歳。はじめは警察の捜査リストにはいっていなかったが、ユセフの親友ということで、彼が署に連行される際にユセフの母親に悪いからと付き添いで同伴したことが彼の人生を大きく苦しめることになる。ちなみに演じたジャレル・ジェロームはエミー賞の主演男優賞にノミネート。
彼らは本当にこんな凶悪犯罪に手を染めたのか?
答えはもちろんノーである、が、1990年の公判では、犯行の目撃証言なし、指紋一致なし、DNAの一致なし、時系列の一致なし、物的証拠なし、そしてもちろん少年5人はそろって無罪を主張したにも関わらず有罪判決が下され、16歳未満の4人はもっとも重い刑罰となる懲役5~10年、16歳のコリーは懲役5~15年の刑を課せられた。
有罪判決の決め手となったのはただひとつ、尋問中の警察により作製されたそれぞれの自白テープだけだった。
もちろんこれにも裏がある。
少年5人のうち4人が自身の犯行とおたがいの犯行目撃を認める供述調書に署名し、テープの前でも自白し、家族からも同意のサインを得られていたがユセフだけはこれらの「証拠」から免れていた。
というのも、教養のあった彼の母親は警察署に着くなり「弁護士を呼ぶから」と尋問を止めさせらていたからだ――そう、16歳未満の親や保護者の同伴なしでの尋問は法律で禁じられていた。
それだけではない。
少年たちは逮捕直後から警察官からの入れ替わり立ち替わりの尋問を休憩や飲食抜きで強制され、何人かは丸2日間起き続けていることを強いられた――もちろんこれも違法である。
また、ユセフは当時隣室で親友のコリーが殴られているのを聞いたあと、自分の取調室に入ってきた警官から「次はお前の番だ」と脅迫されたとその後に証言――アントロンの父親は彼の前科をちらつかせられながら息子に供述調書にサインするよう説得しろと脅迫を受けた。
もちろんこうしたやり方で「自白」させられた記憶なき供述がほかの証言や証拠と辻褄が合うはずもなく、そこで利用されたのがユセフの取り調べが終わるのを廊下で待っていたコリーだった。
警察には幸いなことにコリーは満16歳で、ほかの少年たちと違って親や保護者の同伴や同意なしにいくらでも調書を好きに作成することができた。
そして、親友のユセフを想って随いてきただけの彼は真犯人が名乗りでて無罪放免が確定するまでの約12年間、成人刑務所で服役し、悪名高いライカーズ刑務所などを、幼児虐待という最悪の次に最悪とされるいわれなき強姦罪のスティグマを背負って生き抜くことになる。
しかし、彼らはなぜそもそも容疑者に挙げられたのか。
知っているひとは知っていると思うが、1990年前後のアメリカは今よりもかなり治安が悪く、ニューヨークもその例外ではなかった。
日本総領事館が発表しているこの資料によると、1990年の殺人の犯罪認知件数は2017年のそれの約8倍、強姦は約2倍、強盗は約8倍という有様で、今以上にまた人種的対立が激しい時代でもあった。
たとえば、通例16歳未満の容疑者の氏名は公表しないという手続きが無視されてマスメディアに少年たちの名が晒されたのち、彼らの家族には脅迫の電話や手紙が相次いだだけでなく、ドナルド・トランプは今の価値で約17万ドルを投じて死刑制度復活を訴える1面広告を市の主要新聞に掲載させている。
もちろん、非白人側も黙っていたわけではない。
少年たちが暮らしていたハーレムのパプティスト派のバッツ牧師は彼らのサポートを表明し、当時のニューヨーク・タイムズ紙に「この国で白人女性がレイプされたときにあなたがたが最初におこなうのは黒人の若者集団を一斉検挙することだ。いまここで起きているのはまさしくそれだ」と語っている。
とはいえ、白人たちの差別感情もまったく故なきものでもなかった。
というのも、当時の若い黒人たちのあいだで Wilding という即興の乱痴気騒ぎが流行っており、ともすればそのなかの一部が暴徒化し、無差別な暴行を働くこともままあったからだ。
余談だが、本作の少年アントロンの父親役を演じたマイケル・ウィリアムズは顔面に大きな切創の痕が残っているが、この瑕は子どもの頃に Wilding の被害を受けたときのものらしく、彼は服装を変えるなどして Wilding をする若者たちとは違うように振舞ったらしい。
そして、1989年のジョガー事件で重犯罪の烙印を負った少年たちの共通点とはこの Wilding に参加していたことで――このときも一部の集団が暴行事件が起こしたが少年5人は関与しておらず、お祭り騒ぎになんとなくついていっただけだった――、事件発覚当初は実は警察のなかでも殺人未遂事件を目撃したかもしれない重要参考人程度の扱いでしかなかった。
しかし、当時女性を対象とした性犯罪の撲滅に情熱を燃やしていたリンダ・フェアスタイン検事の指揮のもと、なぜか友達同士でもない彼らが集団婦女暴行を犯したという荒唐無稽なストーリーがでっちあげられ、その物語ありきの供述調書とテープがだれにも止められることなく捏造されたところに人間の怖さがある。
ちなみにこのフェアスタイン、検事引退後は性犯罪を追いかける女性捜査官を主人公としたサスペンス小説を執筆して人気を博す。
本作の公開後は彼女に批判が集中したため出版社は契約解除したものの、未だ謝罪の言葉はないのはもちろん何の罪にも問われていない。
本作の白眉はなんといっても有罪判決後の彼らの「強姦魔」としての生活を正面から描いたことだ。
あなたには想像できるだろうか?
24時間監視するためのGPS装置を足首に巻かれること、罪を認めないがために宗教上の集まりから何度もつまみだされること、これが女の子に対する強姦魔のやり方なのねとフラれること、7年振りに帰ってきた父親の元には自分の居場所がもうなかったこと――。
そして、ただひとり成人刑務所に10年以上収監されたコーリーだ。
大人になった少年たちの意識はあくまで「4+1」の経験であり、ドラマ化の際の彼らのいちばんの願いはコーリーの物語を社会に伝えることだったと製作者の女性映像監督エヴァ・デュヴァネイは語る。
もっとも、その願いは作品にきちんと反映されて後半の多くはコーリーの刑務所生活に割かれているが、それでも描かれた独房暮らしや囚人グループから受けた暴行の数々はあくまで実際のほんの一部だけらしい――尺の都合もあるだろうがあまりにその内容が陰惨だっためだ。
また、コーリーに扮したジャレル・ジェロームの演技は巧いというよりは役作りの入り込みが凄いもので、主演男優賞の候補に選ばれたのも納得の出来だ。
反対にこの作品の難点を挙げると、ドラマにもたせた批判性の焦点がいまいち絞りきれなかったように思う。
人種差別が問題なのか、ドナルド・トランプの当時の政治的発言が問題なのか、リンダ・フェアスタインの行き過ぎた正義感と愚かさが問題なのか、あるいはう少し踏み込んで彼女の違法捜査にだれも疑問を呈さなかったのか、なぜ止めらなかったのか、なぜ彼ら彼女たちは犯行の筋書きの誤りを認められなかったのか、なぜ少年たちの強制された自白の供述テープだけを根拠に陪審員たちは有罪判決を下してしまったのか――。
なにもかもが問題だが、1話1時間の全4話構成ではあまりに扱う内容が重過ぎるためなにかしらの取捨選択や焦点の偏重が必要だったように思う。
とはいえ、視聴者の議論を喚起するというレベルの批評性は十二分にあったようだ。
日本国内でもよその国の出来事と思わず多くのひとが視聴することを願ってやまない。
というのも、人質司法と呼ばれる日本の警察のやり方はまさしく長期拘留によって「自白」を吐かせるものであり、少年たちの身に降りかかったように、1度作成された自白調書はその後にいくら無罪を主張しても受け容れられず有罪判決が下ることも多々あるからだ。
左から、今のユセフ、ケヴィン、アントロン、レイモンド、そして、コリー
もしもあなたがこのドラマをすでに観ていて、あるいは僕の記事をここまで読んで、よし、観ようと思ったなら、この作品を観たあとにもう1時間だけ彼らの物語に付き合うことを強く勧める。
というのも、アメリカの有名司会者オプラ・ウィンフリーによるドラマのキャストと製作者のエヴァ、そして、大人になった少年たち5人を招いたインタビュー番組がネットフリックス内で公開されているからだ。
残念ながらあなたがドラマで涙腺を枯らしきっていないかぎりこの番組も涙なしでは観れないだろう。
逮捕の日から20年が経過した今もなお、偽の供述調書にサインし、真実を手放すことを説得した自分の父を許せない、許すこともないと、大きな身体を震わせながら呟く少年アントロンをどうして平常心で観れるだろうか?
彼らの時間はまだ、たとえ釈放され、無罪放免を勝ち得ていたとしても、あの逮捕のときからまだ止まったままなのだ。
そして、オプラ・ウィンフリーが頬杖を突きながら尋ねる。
――子どもたちを育てるアメリカの黒人として、もし、警察官に止められたらどうするよう子どもたちに教えているの?
足元をみながら答えるアントロン。
――なにもいうな、なにもいうな、ただ何も言うなと。おれが着くまで待っていろ。
隣席のレイモンドが笑いながらその呟きに割りこむ。
――ちがうよ、”おれたち” が着くまで、だ。