カニエ・ウエストの批評を公開してすぐ、ラップの良し悪しを見極めるコツにも寄り道しておこうと思ったが、原理的な洞察も多少は欠かせないので「批評」について少しずつ書いていきたい。
だれも興味をもたないのは知っているからあくまで必要最低限に留めて、ね。
今回の内容は要するに、クロワッサンの食べ比べをしたりするヤツは嫌いだという話、もちろん比喩的な意味で。
批評とは何だろうか。
一見簡単そうだがその雑な切り口ゆえに答えるのが難しいというありがちな問いだが、批評という語を「感想」や「解説」とつき比べればわかるのでここでは触れない。
また別の機会に残しておこう。
僕に必要なテキストは、批評は潜在的なそれと顕在的なそれが合わせ鏡のようになっているという特殊な構造の指摘だ。
そして、批評が抱える弱点――批評も結局のところ個人の好き嫌いであり、主観に過ぎず、価値観はひとそれぞれだ――もこの構造とその無自覚によることも。
説明しよう。
潜在的批評と顕在的批評の対比は、私的と公的、感覚と方法の対比と考えてもいい。
つまり、僕たちはつねに何かに対し――音楽やジュース、他人の振舞いでもなんでも――感覚的な批評をすでに身体がしているが、発言や文章という言葉をもちいて批評をする場合には、言語がその根本から社会的だという性質上、個人の感覚によらない(ように見せかけた)方法をとる必要があることだ。
さもなくば、というのは、これは良い悪いという潜在的な批評を生のままに公にするという意味だが、適切な方法をとらない顕在的批評は受け手のあなたからは共感できるか否か、信用(あるいは信奉)するか否かの対象にしかなりえない。
比較対象と論拠を示せば、主張の是非をたしかめてもらうことはできる――あなた自身が書き手であり、読み手は未来のあなたひとりという日記だとしても。
パンが好きなひとなら、シンプルなものにこそ作り手の力量の違いがでるという理屈でクロワッサンの食べ比べを1度はしたことがあるだろう。
なんなら、コーヒーの飲み比べでも楽曲の聴き比べでも好きに置き換えてくれてかまわない。
問題はこの単純な比較からどんな価値判断が導けるかだ。
A店よりもB店のクロワッサンの方が美味しかったとしたらB店の方が美味しいパン屋だといえるだろうか――僕はそうは思わない。
B店のクロワッサンの方が美味しいとは言えそうだが――それでも1度きりではB店の方が焼き上がりから近かったとかA店の窯のひとが新人だった可能性は残るけども――パン屋というより抽象度の高いものの価値を導くのはやや暴論だ。
たとえば、A店のシェフは料理屋出身でサンドウィッチの方が得意だったり、パンに練り込むフルーツやナッツの組み合わせと量が独創的なタイプだったらどうだろう?
経験上、結構な確率でありえるのは、食パンやクロワッサンのような定番商品はわざと消費者の最大公約数的な、だれが食べても美味しいと思えるような無難な範囲内に味に落としこんでいるパターンだ。
したがって、事態はむしろ逆で、定番商品がそれなりに美味しいお店は地域の舌のレベルの高さを証明していることになる。
ほんとうに美味しいものは、癖が強かったり、単価が高かったり、見慣れないかたちをしているため、中心から少し外れたところに置かれているものだ。
ひょっとしたら、カニエ・ウエストが好きなあなたは前回の僕の記事を読んでこう思ったかもしれない。
My Beautiful Dark Twisted Fantasy が名盤だといってどうして代表曲の All Of The Lights を名曲選にあげないんだ?
そう、僕の耳ではこの曲はいわばアルバムの戦略的クロワッサンのように感じられるのだ――もちろん、戦略的に質を「ほどほど」に仕上げたものを商品の中心ないし顔に据えるのはそれが仕事であるかぎりただしい、絶対に。
だから、クロワッサンの食べ比べはどちらのクロワッサンが美味しいかという以上の価値判断を導くには、サンプルの不足や見当違いという意味でいささか不適切な方法だ。
では、1個の商品や作品からより抽象度の高いものの価値判断をするにはどうしたら良いだろう?
絶対にオススメはしないが、僕が現実的にとっている方法を書いておこう。
それは、1番良いものと1番良いものを比較することだ。
ある時期のカニエの1番良い曲とまた別の時期の1番良い曲を比べるように、僕がお店の良し悪しを観る場合にはできるだけいちばん良さそうな商品や、フォーマットとして一番良くなりやすい料理、あるいは見たことも聞いたこともないものを注文する。
クロワッサンの食べ比べをするひと、正確にはクロワッサン程度の比較でお店の良し悪しを語りたがるヤツが嫌いな理由がこれだ。
少しのお金しか落とさないくせに偉そうにお店を語るなよ、と。
ちなみに僕自身が見つけたこの方法を他人にオススメしない理由は色々あるが、いちばんは相応の熟練を要求し、呼吸と同じように批評が身に付いていないといけないからだ。
そう、何事も「ほどほど」がいちばんなのだ。
批評が生き方になると幸せには生きられない。
さて、抽象度がそれなりに高い文章をここまで読んでくれた賢明なあなたは気が付いただろう。
方法を踏まえた顕在的な批評も、結局は対照物の採りあげというサンプル時点で潜在的批評のいわば「センス」に支えられているじゃないか、と。
そう、だから合わせ鏡なのだ。
センス――経験の連続に培われた直観的判断、正確にはその「地」になる心的イメージも経験の積み重ねである以上、方法の有無とその適切さの度合いという顕在的な面からは逃れられない。
あなたの批評はつねに「センス」を土台にしているが、批評の方法の工夫を通ししてしか経験の蓄積である自分の「センス」に関わることができない。
そして、方法の問題は大抵の場合、サンプルの不足や見当違いが生む比較の偏りだ。
3、4年前、東京のさまざまな知的コミュニティと関係をもっていたにもかかわらず、デジタルゲームが批評的におもしろくなってきていることをだれひとりとして教えてくれなかったことをよく思いだす。
もちろん、人類の独創性が伸長しているのはこの分野だけでなく、以前書いたように長編アニメ映画の『スパイダーバース』も素晴らしい出来だったけども、ホットな世界を無視し、緩慢に衰退してゆく世界だけをみて文化の終わりを嘆く批評家にはなっていけない、何年もそう自分に言い聞かせ続けている。