ゲーム文化に捧げる
文化の坩堝のなかで書く
ゲームレビューの営みは人間の不思議なエネルギーで駆動する。
遊ぶのが好きなら読み書きの時間で実際にプレイした方が楽しめるし、感触を知りたいだけならゲーム配信や実況動画の方が役立つ。発売前後にメディアが一斉公開するものならまだしも、数ヶ月、数年、数十年経った作品でも読み書きされるのは人間がつねに共感を欲し、そこに深い意味をもとめざるをえないからだ。
この記事では、ゲームレビューの読み書きをとおして感じてきた固有の難しさをまとめる。ひとつひとつにもっと掘り下げるべき奥深さがあるが、僕が目指したのは見取り図の作成だ。
結論を先にいうと、ゲームレビューを書くのがなぜ難しいかには以下の3つの要因がある。
プレイングの困難:ゲームを遊ぶことは作品ごとやジャンルごとに一定量の学習を要求し、課題構造がそのプレイングを可視化するため巧拙の誤魔化しがきかない
文章表現の困難:動画媒体のコンテンツが人気を博している今の環境下で文章表現はただあるだけでは読まれず、なんらかの「深さ」による差別化がもとめられる
作品評価の困難:デジタルゲームがほかのアートジャンルを呑みこんで総合芸術として花ひらいたことは、評価者にさまざまなジャンルの教養と熟慮を要求する
プレイングの困難はデジタルゲームだけでなくテーブルトップやスポーツにもいえることで、文章表現の困難は小説や実用系の散文全般がいま直面しているものだろう。作品評価の困難はデジタルゲームを鑑賞するうえで特に顕著な問題だ。
つまり、デジタルゲームをプレイし、評価し、書くというゲーム批評の営みは、この3つの困難の円が重複するところでいま試みられている。それをどこまで意識するかはもちろん書き手によるけども、より良い批評を、すなわち、より精確で、より面白く、より数多く書くことを望むかぎりは避けられないはずだ。
コロナ禍とかさなる配信&実況界隈の盛りあがりにより、ゲーム文化の裾野がさまざまなジャンルやコミュニティを巻きこみながら急速に拡がってきた。
ゲーム批評を問うことは、今もっとも成長し、大きな変化を迎えている文化の坩堝のなかで、悦楽とともに、人間の知性が果たしうる役割とその向かう先を見定めることにほかならない。
文章を書くひとも、読むひとも、ゲームレビューという営みへの理解が深まるとともにその「良し悪し」を考えるきっかけにしてくれるといい。
プレイングの難しさ
ゲームは他のアートフォーマットよりも格段に鑑賞コストが高く、誤魔化しがきかない。
ひとことでいうと、ゲームをプレイすることがそもそも難しい。多種多様なコンテンツを愛するものとして誓っていえるが、作品やジャンルごとに固有のルールとセオリーを覚え、一定のプレイスキルを習得しないとひととおり遊ぶこともままならないのはゲームだけだ。
たとえば、音楽鑑賞は、楽曲を聴くだけならなにも難しくはない。再生ソフトや機器をクリックする(押す)だけでいいし、ライブやコンサートに足を運ぶのでもいい。アニメや文芸やマンガや美術も事情はそう変わらないだろう。
しかし、ゲームは違う。
ゲームとはルールの集積であり、その相互作用たるメカニクスであるため、鑑賞者はプレイヤーとして固有のルールとインターフェースを覚えなくてはならない。いうなれば、ゲームを楽しむには作品ごとに一定量の学習が要求されるのだ。
デジタルゲームに限るなら、たとえば、シューターとストラテジーはゲーム性がまったく違うし、シューターのなかでもバトロワと 5 on 5 ではルールもセオリーもちがう。不慣れなジャンルに飛び込む最初の100時間はゲーマーとしていちばん苦しくも楽しいときであり、脳が拡張される感覚を強烈に味わえる瞬間だ。
くわえて、デジタルゲームはその最低限の楽しみにも学習が必要なだけでなく、その受容過程が可視化されやすいことにも大きな特徴がある。
特に、英語圏はこの手の話題が大好きなようで、「ゲームレビュワーのプレイングの稚拙さはどこまで許されるか」問題は毎年のように燃える印象だ。Doom Eternal や Cuphead はその最たるものだし、今年だと Redfall のリリース前のプレイ動画が取り沙汰された。日本国内でも、IGN Japan の Dead Space Remake のレビューがプレイングの拙さから非難を浴びていたのが記憶に新しい。
そのため、ゲーム批評を書くうえで「どれくらいのゲーム理解度があれば作品を正当に評価できるか」がつねに付き纏う。
しかし、他のアートフォーマットで評価者の受容の質が問題視され、コミュニティで炎上騒ぎになることは(僕以外では)寡聞にして知らない。
その理由として、まず、多くのゲームが独自の課題構造をもつため受容者のやり込み量とプレイスキルを推しはかりやすいことが挙げられる。Elden Ring は遺灰&白霊なしの両刀鞭でマレニアを倒したといえばそのプレイングを想像できるし、作品に習熟していればわずかな動画やスクリーンショットからその腕前をはかれるはずだ。
また、今のデジタルゲームの盛り上がりが配信&実況文化ときわめて相性が良く、ゲームレビュワーがテキスト表現以外のチャンネルをもち、主流のオンラインベースの批評では画像や動画を気軽に添えられるので評価者のプレイングが可視化されやすいこともあるだろう。
一方、他のアートフォーマットでは受容過程の質を推し量る目安がない。純粋な鑑賞量や外付けの知識量が関の山で、それらはもちろんゲーム作品にもいえることだ。
総じて、ゲーム批評の難しさはまずゲームというアートフォーマットが受容者に一定量の学習を強いることと、作品の課題構造が評価者のプレイングを可視化することにある。
批評の書き手としてこの難しさにどう向き合うべきか、僕自身の考えは最後に書こう。
文章表現の難しさ
文章の読み書きはいまや貴重な技能だ。
Twitter のトレンドではいかに文章を読むことが希少な技術かわかるし、note のタグではいかにまとまった量の「読める文章」を自力で書くのが難しいか思い知らされる。僕らがふだん読むゲーム批評の多くは複数人の眼をとおした集団的な制作物だ。
自分ひとりで内容を企画し、執筆し、推敲し、ページ化し、宣伝し、フィードバックを得るまで自力でやっているひとはそれだけで尊敬に値する。納期があるならなおさらだ。
ゲーム批評はテキスト表現の専売特許ではない。
既存のゲームメディアでも YouTube チャンネルを運営しているところは少なくなく、ゲーム関連の話題や新作レビューなど速報性の高い情報を動画で展開しているひとは多い。収益化の仕組みがプラットフォームに用意され、インフルエンサーとしてスケールする可能性を考えると、いま、これからの主戦場は動画メディアとすらいえるかもしれない。
僕の経験からいうと動画と文章のゲームレビューのちがいはそのままメディアの特性の違いだ。
読むという積極期な受容がもとめられる文章に比べ、視覚的に訴えることに強みのある動画では内容を簡潔にまとめたり視聴者の情動を煽るものが多い(目立ちやすい)。YouTube での効率的な収益化のためか、15分前後の尺のものが日本国内ではきわめて多い(目立ちやすい)ことも特徴のひとつだろう。
そのため、動画媒体のゲームレビューは率直にいうと観るに値しないほど内容が薄いものばかりだ。もっとも、英語圏では1時間を優に越える深掘り系のレビュー動画が100万再生を記録したりもしているので、動画媒体のゲームレビューでより良いものを「書く」ことはできないとは考えないし、文字媒体のメディアや書き手がよりカジュアルなコンテンツとして(薄い内容でも)動画をだすのは良い売り込み方だと感じる。
したがって、志があるなら、文字媒体のゲームレビューの書き手としては批評をより「深く」書くことで体験の質を上げ、動画媒体のものよりも付加価値を高めることが最低限求められる。
もちろん、この差別化としての批評の「深さ」をどうとらえて自分のコンテンツの武器にするかは個人の好みや向き不向きがある。抽象的な思考能力を活かして作品を徹底的に分析するのもそうだし、知識量や調査能力の裏付けをもとに歴史的な視点から作品整理をしたり、ことなる専門知識をベースに意外な角度から切り込むのもおもしろい。
いずれにせよ、自分の批評にどういう「深み」をもたせてほかと差別化するかは今のゲームレビューを取り巻く難しさのひとつだ。
とりわけ、今の批評はどのジャンルでも特権的な価値はないし、僕も含め、今の動画文化のおかげで多くのひとがマジメな文章を読むことよりも刺激的なコンテンツに慣れきっている。実際、日本語で読めるかなりの数のゲームレビューが僕には冗長に感じるし、書き手の見方や評価がハッキリでる部分以外は苛立ちながら読み飛ばすことがほとんどだ。
いかに圧縮した文章でより「深い」批評を書き、読み手の見方やゲーム体験にあたらしい(適切な)意味を与えるか。今のコンテンツ環境でより良いゲームレビューを書くとはこの困難との格闘を意味する。
作品評価の難しさ
デジタルゲームはもっとも総合性の高いアートフォーマットだ。
Cyberpunk 2077 を考えてみよう。ゲームとしては陳腐なアクション RPG でありながら、物語、言語、演技、音楽、映像といったさまざまな高水準の「側面」がこの作品をユニークにした。どこを切りとっても「絵」になるフィールド作りをはじめ、ひとつひとつに物語的な奥行きのあるドキュメント、大物の Run The Jewels から The Armed や Gazelle Twin のようなきわめて個性的でかつ優れたミュージシャンまで起用したラジオからは本作の高い芸術的センスがうかがえる。
Cyberpunk 2077 はそのアートディレクションの透徹した輝きにより絶賛されるべきだった。
映像表現をプレイするというデジタルゲームの融合性ないし総合性の高さと複雑さの到達点としてほかに比肩しうる作品はなく、その美しさと一貫したセンスを感じとれるひとならナイトシティの迷宮を散策し、郊外の油田から産業廃棄物の山の合間をお気に入りのバイクで気ままに流すだけで幾度も嘆息を漏らすだろう。
もちろん、音楽表現とひとくちにいってもラジオで流せる楽曲と特定のシーンで使われる劇音楽、プレイヤーの入力に応じてさまざまに変化するインタラクティブ・ミュージック(あるいは劇音楽のその側面)はそれぞれの役割と自律性がちがうため、音楽というひとつの物差しではかるのには無理がある。映像表現もおなじだ。
つまり、今のデジタルゲームはさまざまなアートジャンルを呑み込み、総合芸術としての高さを誇るだけでなく、それぞれの構成要素がゲームのメカニクスに奉仕する「側面」として独自の発展を遂げてもいる。
当然、その総合芸術を評価する側もまた総合的な教養と視野がもとめられるため、ゲームレビューはますます難しくなっている。音楽も映像も物語も演技もその良し悪しはゲーム分野の造詣だけではわからないからだ。
また、以前書いたように、作品の総合性の高さには要素の評価を全体評価へ横滑りさせる危険性が潜んでいる。
たとえば Hogwarts Legacy が原作の世界観を忠実に再現したからといってその作り込みだけで「神ゲー」としたり、フレームレートの不安定さだけで「糞ゲー」とするのは浅慮というほかないだろう。
作品の「側面」が多いからこそ、個別的な評価を慎重に秩序付けたうえで全体評価をする熟慮がいまのゲーム批評にはもとめられる。
評価を成立させる価値秩序、つまりは暗に何をどの程度重視し、軽視し、無視しているかを考慮しなければ、限られた要素への愛着と無教養により対象全体への評価を酷く歪なものにさせかねない。
近年のデジタルゲームとほかのアートジャンルやその産業の結び付きはたんなるコラボレーションの枠を越えてきた印象がある。
個人的には先述の Run The Jewels をはじめ、Hudson Mohawke (Watchdogs 2) や Florence + the Machine (Final Fantasy XV) や Porter Robinson (League of Legends) といったメジャーシーンにいながら一定のクオリティを保った本格派のミュージシャンとの仕事が印象深い。インディーズでは、アメリカでもっとも独創的なヒップホップミュージシャンである Doseone (Enter/Exit the Gungeon, Disc Room, Sludge Life ほか) の活躍が目覚ましい。
また、熱心な FPS ゲーマーとして知られる Zedd が共同制作した武器スキンを Valorant が発売し、2021 Valorant Champions のオープニングセレモニーで彼がパフォーマンスを披露したことはゲームと音楽の結び付きがより文化的になってきたことを象徴するだろう。日本国内では Apex Legends などの配信イベントにさまざまなミュージシャンが参加していることにも表れている。
映像表現ではなんといっても Riot Games が監修した Arcane の芸術的到達と成功を抜きに語ることはできない。たんなるファン向けのサイドコンテンツの水準を大きく越え、現代アニメーションの傑作のひとつに数えうるおそるべき強度と自立性を達成した奇跡のような作品だ。商業的にはもちろん、今年の The Super Mario Bros. Movie や Dungeons & Dragons: Honour Among Thieves の ヒットが印象深い。
こうしたコラボレーションやメディアミックスの背景には、デジタルゲームの市場規模の拡大と実況&配信文化の隆盛があることは想像に難くない。
その意味で、デジタルゲームとほかのジャンルとの融合のかたちは今後僕らの想像を越えた大規模で密なものになるだろう。Fortnite や Minecraft でのメタバース的なライブパフォーマンスはその先鞭にあたるはずだ。
デジタルゲームがほかのアートジャンルを呑みこんだ総合芸術として花ひらいていること、経済的・文化的な成長からさまざまなコラボレーションが生まれて芸術的・商業的な成果を挙げていること。それは、ゲームの評価者にはほかの分野の教養がもとめられ、ほかのジャンルの評価者にとってはデジタルゲームが無視できない存在になってきたことを意味する。
デジタルゲームの成長と総合性の高さに驚いてこの世界に飛びこんだ僕からすると、なんと素晴らしい時代になったんだと快哉を叫びたい。
読者の検証に身をゆだねる
最後に、プレイングの困難にゲーム批評の書き手としてどう向き合うかべきか僕の考えを書く。
繰り返すようにこれらの困難はより良い批評を書くときに顕在化する。特に、プレイングの困難はある程度の速さと頻度でさまざまな作品を批評するひとにとっては日々向き合いつづけている問題だろう。どこまでゲームを進めて理解を深めれば作品を正当に評価できるのか、許されるのか、そこに絶対的な答えはないからだ。
僕自身の考えをいうと、評価者のプレイ環境や進捗、難易度、スタイルを開示するかぎり、はじめの2時間だけの批評もトロフィーコンプ(全実績解除)を達成した批評もひとしく価値がある。
というのも、オープニングだけでわかることは少なくないし、どのジャンルにもいえるが数百時間を費やしたからといって「わかる」ものでもないからだ。プレイ体験からデザインを分析し、概念を操作し、その意図を想像したうえで作品評価を説得的に書くことまで考えると、プレイ時間の量はあまりインパクトのある要素とはいえない。もちろん、プレイ時間が少ないとその分いえることも精確性もかぎられはするけども。
重要なのはプレイ体験の条件を記すことだ。
どういう環境で、どのような難易度設定にし、どういったスタイルを好み、ゲームの進行度はどれくらいか。これらを開示することで読み手が評価者のプレイ体験を想像しやすくなり、その主張のただしさを検証できる。さわりだけの作品評価に価値があるのはそのかぎりだ。
実際、僕がひとのレビューを読むときはその評価者の教養と価値観とプレイ体験を想像しながら咀嚼する。どういうひとがどう遊んだらそう映るかを考えることで同意も共感もない他人の意見でも納得はできるからだ。
たとえば、Atomic Heart では複数の敵に囲まれるとプレイヤーキャラクターとのあいだに衝突判定があるせいで脱けだせず不快だ、という意見が散見された。メディアのレビューでも見掛けた記憶がある。
最高難易度のアルマゲドンでプレイした経験からいうと、そもそも複数の敵に追い詰められた時点で「死」が確定するので、そうならないように地形を利用するし、スキルを使うしで、身動きがとれないからといって不快になる余地がない。タクティカル要素のある難易度高めのゲームではいかに有利な状況を作るかが重要であり、おもしろい部分でもある。
Atomic Heart が良く出来ているのはそれにあわせて行動阻害系のスキルも豊富にあることだ。クールタイムをうまく管理すればそうはならないように絶妙な調整を施されている。
つまり、壁に追い詰められると身動きがとれず不快だというのは、ノーマルかそれ以下の難易度設定で、タクティカルな戦闘に慣れていないひとにとってただしい主張だ。が、デザイン側でそれを回避する手段が十分用意されているため、作品への批判としては限定的で弱さが残る。
その筋から批判するなら、行動阻害系スキルの使い方のチュートリアルが難易度のわりに弱いことぐらいだろうか。もちろんそれも、本作のプロモーションが大成功し、おそらく当初の想定客層よりも実際の客層の裾野が広がったわりに、という条件付きになるけども。
このように、一見ただしそうで曖昧な主張もその元にあるプレイ体験を想像し、ゲームデザインと照らしあわせることでより客観的な指摘にまで磨きあげられる。ゲームを批評するには個々のプレイ体験という「点」ではなくデザインの側から「面」でとらえる必要がある、とたびたび書く理由がこれだ。
ゲームはインタラクティブで総合的なアートフォーマットだからこそひとりの人間の手には余りやすい。
あらゆる批評は作品の価値付けであり、中長期的にはどの作品をどういう観点から後世に残すべきかという時の試練に加わることだ。その語り継ぎからみれば、自分のゲームレビューの体験の条件を記すことは読者を信じ、その検証に身をゆだね、作品をより精確な評価へと棹さすことにほかならない。
ゲームレビューの難しさを3つの要因に分析して1つの指針を示したこの文章もまた、読み手の認識を深め、大河の流れのなかで作品をより適切な結末へ導くきっかけのひとつになれば良い。
最後に残るのは祈りだ。