ブンゲイファイトクラブのプチ炎上事件でお知り合いになった加藤晃生さんから批評のご依頼を承っていた。
有難いことなので、件の全作品批評への一部の反響の応答も含めて僭越ながら意見させていただこうと思う。
批評のご依頼は随時受け付けているのでご希望の方は遠慮なく申し付けてほしい。
ジャンル不問。
僕が対価として作り手にもとめるのは僕の批評記事のRTのみ。
ノージャンル批評という特殊技能をもった人間の能力と時間、エネルギーをRTで買えるとおもえばかなり破格の条件ではないだろうか。
- 問答無用、斬捨御免。
- 原則、冒頭から読めた部分までしか読みません、時間は有限なので。
- 以下の批評は、羊谷知嘉個人の責任でおこなうものです。
- 反論歓迎。
- 批評をご希望の方はご依頼ください、批評記事のRTと引き換えに承ります。
- ジャンル不問。
萩尾望都に拡販がかかっている。
3年前に突如、「ポーの一族」の続編が発表された。翌年には連載が再開され、単行本が出て、「芸術新潮」で特集が組まれ、満を持してのデビュー50周年記念、朝日新聞社主催の「萩尾望都 ポーの一族展」である。
おそろしい。一連の企画が決まった時点で勝ちが確定している。鉄板の投資案件である。こんなん絶対儲かるに決まってる。赤字の出しようが無いチート案件。一度で良いからそういう案件に乗ってみ(以下自粛)
via. ブンゲイファイトクラブ予選最下位作品
デザインという言葉を考えたい。
Design という言葉は14世紀末には “out” を意味する接頭辞の “de-” と “sign” を意味する “signale” が接着するかたちで登場していたようだ。
サインというのも厄介な概念で、たとえば野球のような集団競技ではそこら中で暗号的なサインが飛び交っているけども、問題になるのは常にそれが何を意味するかで、サイン自体が見向きされることは全くといっていい程ないーー記名としてのサインもまた誰を表すかが重要であってサイン自体の美しさや可読性などが問われることはない。
design もこのサインの哲学的な特質を引きずってか、16世紀には “plan” や “outline” という価値の二重構造のある意味の動詞として使われはじめたという。
現代社会を見渡せば、身の回りのものほぼ全てが人為的な意図をもってデザインされた工業製品なり創作物なりなことに驚かされる。
言葉はどうだろうか?
言語はその起源に毛づくろいという情緒的なやりとりをもつためその内実の分析はカンタンではないが――自然もまたある種の進化論的デザインを被っているという見方もあり、僕はそれを支持しているがこの記事では立ち入らない――人間の書く文章もだいたいは表現自体よりも何を伝えようとしているかの内容が極端に重視されているという意味ではデザインの二重構造を被っているといえそうだ。
実際、社会集団において書式の統一が重要視されているのは形式上の標準化でその内容を読み手にわかりやすくさせるためで、当然、表現自体はこの場合には酷い抑圧下で手かせ足かせを嵌められているといわざるをえない。
したがって、特定の社会集団内での言葉の流通性を考えるならその書式や表現の仕方は逸脱のないようにすべきであり、人間が哺乳類としての共感作用による模倣性がその特質として備わっている以上はほとんどのひとが意識せずにデザインの被った言葉を書いている。
見方を変えていえば、芸術は、控えめにいってもデザインの対義語としての芸術は意識的な表現への注意によってしか書かれえないということだ。
ブンゲイファイトクラブで僕が書いた全作品批評に寄せられた批判や感想のうち、評価軸が表現技術に偏り過ぎているのでは?という至極まっとうなものがあった。
技術に偏っている気はないが、この声に応答するなら何を伝えるかの内容ではなく表現自体に拘ることが芸術作品を創ることであり鑑賞することだといえる――デザインの場合は逆で、通常の見方や読み方はその内容の方に偏っている。
実際、どんな登場人物もストーリーも世界観も、文芸作品ならば言葉によってしか表現されず、また、同じ主題でもその書き方=表現によって書き手がいかに深く、どれだけ立体的に世界を観ているかの比較もできる。
また、表現という観点に重きをおかなければ原作者の違う映像作品などを適切に評価することもできないだろう。
飲食物で考えるとわかりやすいが、同じ「水」のAとBであっても採水地とその後の処理によって味わいは変わり、同じ「トマト」のAとBであっても育成地とその作り手によって質的にはまったく別物になる。
料理を作る側としても、「親子丼」という概念とそのレシピはある程度の統一性はあるが、ダシを何にするかや味醂や醤油、具材などの量や種類によって現実の味わいは多少ながら変わってくる。
結局、眼の前にある表現そのものに拘ることでしかその質は判断できず、それが何を意味するかの内容はむしろ2の次とするのが僕の立場だ。
もちろん、違う立場や意見からの反論はあって然るべきだが、僕自身は他ジャンルに対する汎用性と制作者目線も重要視しているためやはり何を意味するかの内容に重きをおく気にはなれない。
別の記事で書いたことだが、批評=新たな読みの可能性を提示することという考えもわからないではないが、子どもの落書きにも猿が描いた線の羅列にも新たな読みの提示はできるうえに他者からの検証も不可能なため、それはあくまで「わたしはこう読んだ」という解釈の範疇を越えるものではないことは重ね重ね明記しておく。
以上の観点から観た場合、加藤晃生のブンゲイファイトクラブ落選作を読んで気付かされるのはまず言語つまりは表現自体への意識の希薄さだ。
たとえば、冒頭1行目にある「拡販」という言葉はやや専門的で、B2Cビジネスの近いところで仕事をしていないとあまり聞き慣れないかもしれず、一般的に耳慣れないわりには表現としての多義性もないためだれもが読む冒頭1行目でそのまま使うには不適だろう。
また、ひとことめから「萩尾望都」という固有名詞を出していることも潜在的読者を狭めるという意味で賢い語彙選択とはいいがたい。
萩尾望都の代表作、文章中で挙げられている『ポーの一族』や『トーマの心臓』などは40年以上も前に描かれたもので、日本のサブカルチャーに強いひとならその作家名や代表作名ぐらいは知っているだろうがそうでないひとにとっては未知の人物に過ぎない。
書き手が萩尾望都も知らない人間はお呼びではないといえばそれまでだが、適切な技術と能力があればカンタンに救える問題なうえ、このご時世のしかもネット公開作品で作り手みずから読者を不必要にせばめる行為には僕は否定的な見方をとらざるをえない。
また、文章の内容にも多少は関わるが、この作品は萩尾望都が偉大な作家でその代表作は素晴らしい出来だということを――続篇の方向性には疑問が残るようだが――大前提としている。
書き手が何をどう評価するかはもちろん自由だが、根拠の提示もなく既存の作家・作品の評価を前提とする書きかたはそうではない意見をもつ人間を想定読者から放逐するという意味で褒められたものではないだろう――実際、僕自身は萩尾望都をむかし冒頭読みしたかぎりではあまり良い印象をもてなかった。
したがって、加藤のこの文章はその砕けた文体とは裏腹にかなり読者をせばめて書かれている。
それは、書き手の想定通りのことなのか、もしそうであるならばその狙いは今の時代に相応しいのだろうか。
また、表現に話をしぼって観た場合、加藤のこの文章の面白さはネットスラングの流用に大きく拠っているが、技術的に難しいことではない上にもちろん独創的ともいえないので、内容を無視して表現だけを楽しみながら読むことを想定した作りにはなっていない。
同様に、内容に話をしぼって観た場合、巨匠・萩尾望都の書く『ポーの一族』の続編の批評という個別的な内容を越えてより一般的ないし普遍的な問題が書かれていたかというとやはりそうでもないので、萩尾望都やその作品に興味がないひとでも楽しみながら読めるようにもなっていない。
要するに、表現面にせよ、内容面にせよ、文体の気軽さとは裏腹に想定読者をかなりせばめて書かれていることにこの文章の致命的な問題がある。
では、加藤のこの作品に面白さがないかというと実はそうではない。
テンポがとても良いのだ。
と、言葉で指摘するのはカンタンだが実際に作品のテンポを良くするには作り手自身の時間感覚と密接に結びついているため、騙しが利かないという意味できわめて貴重な特性といえる。
というのも、作品のテンポを良くするにはまず無駄を省かなくてはならず、何を無駄とみなすかにその作り手の知性と時間感覚が色濃く反映されるからで、当然、遅滞した精神ではムダを無駄と感じられないためテンポが悪く、反対に沸騰した精神ではより多くの無駄を潰せるため同じ紙幅でもより多くの要素を詰め込められる。
売れる売れない、あるいはウケるウケないという問題を考えた場合には作品のテンポは何事もそうであるように「ほどほど」がいちばんだが、純粋な芸術的観点にたった場合には作品が壊れきらないかぎりでテンポは速ければ速いほど良いというのが僕の立場だ。
加藤の作品はこの観点で高く評価できる。
もし、僕が編集責任のある立場にあれば、文体の良さはこのままに、1970年代から高い評判を勝ち得ているいち作家の方法論を2010年代末に適用させる意味をメイントピックに据えることを勧め、出来上がったあとも何度か推敲することを強く求めたであろう。
加藤晃生のこの素の文章はかならずしも高く評価はできないが、彼のテンポの良さという魅力はあり、掘っても磨いても「一般的に」面白くなるであろうトピックはすでにだされている――あとはキチンと推敲の時間をとり――僕はほとんど推敲していないと推察する――表現自体にも神経を通して言葉をかためていけばまちがいなく面白くなる、はずだ。
加藤がこの文章を書きなおして時代論を絡めた萩尾望都批評を公開する日を僕は楽しみにしている。