この記事は、2014年3月19日に当時運営していたブログで掲載した文章のリライト版だ。今でも読む価値のあるものをドメイン処分の時期がきたので移動している。
スティーブ・ジョブズの有名な卒業式スピーチ、特にその死についての助言――他人の人生を生きて限られた時間を浪費するな――には執筆当時よりもはるかな鋭さと重さを感じる。
というのも、当時の僕はできるだけたくさんのことを同時に思索することに集中していたが、今の僕は逆に、あるいは1周回って、なにを僕の興味関心の外に放っておくか――それらは大抵他人のことだ――に集中するよう心掛けているからだ。
それが進歩か退化かはわからないが、結果として5年前の文章を全面的に書きなおし、まわりくどい言い回しや無駄な段落を削除し読みやすくすることができた。
オーストリア・グラーツ大学の神経科学者アンドレアス・フィンク氏らは、MRI(磁気共鳴断層撮影装置)を使って統合失調症傾向の患者の脳画像を撮影。その後に創造性を試すテストを実施して両者の関連をまとめ、昨年9月に研究成果として発表した。
これによると、重い統合失調症傾向を患っている人と創造性豊かな人の脳内ではともに、思考中であっても、注意と集中にかかわる部位とされる楔前部(けつぜんぶ)が活動を続けていた。一般的に、複雑な課題に取り組むと、楔前部の活動が低下し集中することを助けると考えられている。
創造性豊かな脳も統合失調症傾向の脳も、大量の情報を取り込む一方で、雑音となる情報を排除できない。つまり、脳のフィルターが機能していないといえそうだ。
人間の創造性に狂気を結びつけた議論があまり好きじゃない。
それというのも「天才」の偶像を容易に仕立てあげられるからで、最近ではなんといっても佐村河内守(!)だが、人間の創造行為に作り手の物語を恣意的に纏わせる見方を支持し、実際の作り手がナルシスティックな鏡像と淫するのを許していることが癪に障る。
議論の是非でいえば、社会学や心理学の議論に広く見受けられることだが、身体的成熟を経た人間のすべてが精神的にも同様の成熟を経るという平等主義的な前提が暗にあり、この場合では創造性の有無とその程度差への批評的議論がなされていないことにも違和を覚える。
「天才」たちの全てが本物の天才的創造者ではないとしたら、歴史の審判はときに世俗の評価に騙されてきたとしたら、賢いあなたなら1度はそう考えたことがあるだろう。
とはいえ、上記引用中の「統合失調症傾向の患者」と「創造性豊かな人」の脳画像の比較結果には素直に興味を惹かれる。
物事の質の良さとは基本的に、単純さではなく複雑さに、素朴さではなく厳密さ、繊細さにあり、実際にそうしたものを作れるひとはそれだけの微細でかつ膨大な情報量を処理しているわけで、創造的天才が「大量の情報を取り込む一方で、雑音となる情報を排除できない」ことは経験的にも事実に近いようにおもえる。
なぜなら僕もまた特別な存在だからです。
・ジョブズとの思い出について
「スティーブとは、誰も気付かないような製品の細かい部分について一緒に多くの時間を費やしました。その違いは、機能性については関係のないものですが、私たちはそれに気付いていた以上、解決しなければいけなかったのです」
「そうそう、スティーブと一緒に旅行したときのこと。予定通りホテルに着きました。チェックインして、それぞれ部屋に入って。私は荷物を開けることなくドアのそばに置いて、いつも通り、彼からの電話を待ちました。予想通りスティーブから、『ジョニー。このホテルはクソだな。他へ行こう』って電話がありました」
・ジョブズはみんなが言うとおり気むずかしかった?
「スティーブについては多く言われているけれど、それを確認したわけではないからなんとも。確かなことは、彼は鋭い意見を持っていたということ。時にそれは鋭すぎるほど。彼は、常に『これで十分なのか?これが正しいのか?』ということを自問自答していました。彼はとても頭が良く、彼のアイデアは壮大でした。たとえ良いアイデアが出てこないときでも、最後には素晴らしい物ができるはずだと信じていたのです」
世間は創造的行為を娯楽的、実体的に、すなわち、天賦の才の発露とロマンチックに捉えるが、実際には身体的模倣という無自覚な同調の習性の否定に、主観的にはものごとの決定の根拠をじぶんの感覚、判断、観察に措くことがそうだ。
ジョナサン・アイブがこの記事であかすように、人間の創造性の高さはその精密さ、厳密さ、繊細さの度合いにこそ顕著にあらわれる――端的にいえば、凡庸なひとが10や50しかみない同じ場所に、創造性の高いひとは1000も10000もの違いを感じとれる深い解像度の世界を生きている。
比喩的にいえば、優れて創造的なひとは顕微鏡と望遠鏡を常に装着しながら生きていると考えればわかりやすい。
裸眼の世界があたりまえだと見做す部族のなかで極少数の者があくせくと視覚デバイスを装備しなおしたりレンズの入れ替えやピント調節をしていると想像するときわめて滑稽で、実際に世間は彼ら彼女らのトンチンカンさをよく笑うものだが、そのコントロールが極端に下手な天才たちの生涯は往々にして悲劇的、あるいは実に喜劇的だ。
スティーブ・ジョブズが「誰も気付かないような製品の細かい部分」にこだわるほど繊細であり、同時にその「アイデアは壮大」ともいわせしめるのはそうした極度に複雑化したリアリティを生きていたからにほかならない。
少数の仲間と偉大なる先人への敬意と共感を除けば(ジョブズの場合は Polaroid 社を創業したエドウィン・ハーバード・ランドだったが、研究者肌の生前のランドは経営者としての才覚が際立っていたジョブズを逆に評価しなかった!)深い孤独と騒擾の感覚世界は、もちろん、他人と容易にわかちあえるものではない。
結局、スティーブ・ジョブズとはなんだったのかという議論は亡くなった今にいたっても意外なほどなされていない。
私見では、ジョブズのもっとも独特な特徴であり格別の興味を惹くのはその社会集団に対するポジションのとり方だ。
若い頃のジョブズを多くのひとが見誤ったように、彼は相棒のウォズニアックのような技術者というよりは美しいものを作る芸術家であり、同時に起業家で、経営者で、組織内の科学者の位置に留まり続けたランドとは違い、大きな組織の頂点にたって指揮を執る人物でもあった。
が、帝王学を授けられた君子的人物というよりは、マッキントッシュ・プロジェクトをジェフ・ラスキンから途中で強奪したことからもわかるとおり海賊の首領のように狡猾だ。
そのうえ、ジョブズは文字どおりの意味でポストモダン期の革命家だった。
1960年代以降のカウンター・カウンチャー運動には政府機関や大企業に専有されていたコンピューターの新しい力を非市民的な若者のあらたな道具として簒奪するという重要な目的があったが、1980年代のジョブズはこれを Macintosh で実現し、さらには2000年代の iPod, iPhone, iPad によりコンピュータ史におけるダウンサイズ革命をふたたび遂行した。
創造的な芸術家として集団の外に立ち、辣腕の起業家、経営者として集団の上に立ち、そして、非市民的な大衆革命家として集団の下に立つというこの複層的なポジショニングこそが彼の最大の特徴だ。
ちなみに、スティーブ・ジョブズが半合成幻覚剤の LSD を創造性の源として賞賛し、他人とじぶんを隔てるもっとも大きな壁としてこの体験の有無を挙げた逸話も興味深い。
素朴に考えるかぎりはこうした薬物も究極的にはあらゆる情報に対する脳のフィルターを一時的に緩める、いわば人間を瞬間的に天才へ近付けるものなのだろう――それが善か悪か、喜劇か悲劇かは別にして。