今日、都市を問うことはきわめて重要です。
ひとつには、都市が、群れや村を越える規模の大きさと社会集団の分業制と専門化という意味で、今日失われつつある文明性の本質を問うものであること。ふたつには、人、物、金、情報の集約地としてある種の過剰さを帯びてはじめてヒトに「懐疑」という特殊な知性原理をもたらしえたという意味で、イスラム教系の原理主義と独裁体制下の国家資本主義が存在感をますなか、西欧的なるものとは異なる近代性の条件を問いうること。
そして、今日のグローバリゼーションで土地からの拘束性が激減し、物事の流動性が増し、個の様々な選択肢の多様性が増すと同時に国や社会間の見かけの違いが消失しつつあるなか、現代におけるアイデンティティの拠り所を都市のすがたが問いうること。これは、都市のブランド戦略の問題であると同時に、ボコ・ハラムなどの強硬な反西欧主義や、日本の反アメリカ文化帝国主義などの個や集団の感情的な社会問題でもあります。
さらに私は、21世紀からの気候変動により、都市と社会の基盤である自然環境の変動性が増し、場所によっては生態系が様変わりしはじめているいま、人類がいかに巣の居心地の良さ(ホメオスタシス)を維持するか、あるいは、都市を別のよりふさわしい自然環境に移し変えるかという意味で、現代の次なる時空間の根本的な生活基盤の可能性を試すというあらたな論点を付けくわえます。これは、都市のサステナビリティ(持続可能性)の条件を問うと同時に、先史時代のリメイクとでもいうべき社会集団のモビリティ(機動性)への技術的挑戦です。
ところで、都市なるものを実際に歩いてみると不思議なことに気付きます。それは、以下に示すとおり、都市と私たちが普段呼んでいるものはフィジカルには歩けないことです。つまり、都市なるものは、実際にはさまざまな「まち」のモザイクであり、私たちは「都市」という大きな括りのなかの無数の「まち」を行き来しているにすぎないのです。では、都市とはそもそも何でしょうか?
まず、社会批評家の竹下喬さんが私の某友人へのツイートに日本文化論の立場からくださったコメントをご紹介します。
都市を歩くことはできない。
— 羊谷知嘉 Chika Hitujiya (@hail2you_cameo) 2014, 12月 1
@Bonjin_Ponchi いや、「都市」の最小単位(定義)は何かという問題なんですよ。たとえば、東京23区でも無数の街なり町なりがある程度の独自性をもって質的には自立しているし、もっと計画的に設計された「都市」でも区域や通りが質的に自立している。とすると、→ — 羊谷知嘉 Chika Hitujiya (@hail2you_cameo) 2014, 12月 1
@Bonjin_Ponchi とすると、私たちがフィジカルに体験できるのは同質性の高い集まりのモザイクだけであって、都市的なるものとは、紙の上に書かれたり、脳で構成されたりするようないわば全体図という経験の圧縮ではないのか、と。だから、逆説的に、都市は歩くことができないと。
— 羊谷知嘉 Chika Hitujiya (@hail2you_cameo) 2014, 12月 1
羊谷知嘉さんの主張はこれまで多くの社会学者や建築学者が指摘してきた問題と表裏一体ですね。つまり、日本に都市は存在しない。
日本の普通の都市は、西洋の多くのものとは異なり、都市区画整備や景観に対して無頓着です。というのも、個々のデザインにばかり注目し、都市全体の統一的なデザインを作ることができないからです。つまり、日本の都市に明確な領域はなく、拡大したムラに過ぎないのです。
「ムラ」は明確な領域を持ちません。それは、心理的・社会的な紐帯によって成り立っています。東京にはそのような連帯感があるとは言えませんが、一方で「ここは東京だ」という何となくの常識はあるようにも感じます。この感覚は、無秩序に、無限に広がっています。例えば、千葉県にある空港が「新東京国際空港」だったり、テーマパークが「東京ドイツ村」だったり、「東京情報大学」があったりすることにも見受けられます。
では、「東京」はどこまで広がりうるのでしょうか?
東京の特徴はまさしく「無限に広がる」ことです。しかし、この言い方は厳密ではありません。ポイントは、山の存在です。関東平野は、関東山地や中央高地と呼ばれる山塊に囲まれています。東京都内に限っても、奥多摩山塊、秩父山塊、高尾・陣馬山塊などがあります。重要なのは、これらの山地以降は「東京」と言われることが少ないことです。山梨県は一般的には首都圏に含まれません。足柄山地以西も、首都圏と言われない傾向にあるでしょう。
また、富士山が見えることも特徴に挙げられます。日本古来の神話でも富士山は重要視されており、「日本」というイメージの中心になっています。そのような磁場が働き、富士山は特別な山として今でも人々の心の中にあります。富士山に見守られていることも東京の特徴のひとつです。
このように、東京には明確な境界がないものの、朧げながらある感じがするのはおそらく山の存在があるからでしょう。同時に、西洋の都市とは異なり、日本の都市は基本的に自然に規定されているのが特徴と言えるでしょう。これはきわめて文明論的におもしろい事実です。
以上のように、東京という都市を捉えるには「山」の存在がきわめて重要なのではないかと考えるに至りました。
竹下さん、街歩きの経験の活きた貴重なご意見ありがとうございます。
しかしながら、まず、竹下さんと私のあいだに基本的な視点の違いがあります。竹下さんは日本国内の都市を問題にしていますが、私は都市なるものの一般原理を問題にしています。ですから、西洋、非西洋の違いに関わりなく、日本文化の特殊性を越え、都市は歩けない、すなわち、都市とは人間の脳内リアリティであると考えます。だからこそ、ひとは都市を原理的に歩けないと同時に「まち」を行き来することで常に歩き、経験の圧縮として個別の都市の記憶を創り続けているともいえるでしょう。
たとえば、日本の都市、とりわけ、東京とは違い、区画整備や景観の配慮など、都市設計の意識が強くある欧州やアメリカの都市においても、区域や通りの隔たりというかたちで、出身文化や帰属階級、生活水準などによる「まち」のモザイクがあるのではないでしょうか? それは、スーパーリッチであれ、ユダヤや中華系、あるいは南米などからの移民であれ、彼らのなんらかの同質性が生存のために結びつけた「ムラ」でしょう。
西欧圏の都市における「ムラ」のモザイクについて、ロンドンで生活経験のあるマルチメイカーの坂田真奈美さん、オーストラリアに留学経験のあるライフハック哲学の秋織大郎さん、よろしければご意見をお願いします。
ロンドンといってもその中で区域が細かく分かれていて、住んでる民族がそれぞれの地域によって違います。大まかな区域では中心からゾーン1〜9に分けられていて、実際に行った場所でピックアップすると、西部のブリック・レーンはビンテージショップやグラフィティ、マーケットなどでよく取りあげられますが、インド系の移民街でカレー屋と衣類のお店が細い道にもひしめいてました。ちなみに、公共サービスの区域もまたゾーンとは異なっています。バーネット、カムデン、ウエストミンスターなどですね。
わたしが滞在した場所は、イースト・フィンチリーという東部に位置する裕福なブリティッシュが多く住んでいる地域です。そこにあるビショップ・アヴェニューは世界で最も高い住宅街といわれています。実際、美術館みたいな家が沢山並んでいます。 さらにそこから10分程歩くと、ユダヤ人が多く住むテンプル・フォーチュンという地域があり、ユダヤのひとが経営するお店がほとんどです。スーパーにもコーシャー・フードのコーナーや専門店がはいっています。ユダヤ人は基本的に好かれていますね。ホストマザーも、彼らはとても真面目で、彼らの住んでいる辺りは治安が良いといっていました。
私の学校があったゴーダーズ・グリーンはテンプル・フォーチュンからまた10分くらいのところで、日本人が多く住んでいますが、いろんな民族が混じっている区域です。
センターに位置するお洒落な場所とされるソーホーをとっても、チャイナタウンがあり、ミュージカルシアターが集まっているところがあり、適当に歩いているとアダルトショップが現れたりします。いかつい男の人が集まっている薄暗いバーがあったり、また小さな広場(ソーホー・スクエア)があってそこのベンチや卓球台で人々がくつろいだりしています。ソーホーはもともと歓楽街だったみたいですね。
ロンドンは大体治安が良いですが、聞いた話によると、北西部のウォルサムストーは治安が悪くて夜遅く帰るのは危険だそうで、大体危ないところは黒人街が多いみたいです。
とにかく、ロンドンの文化の濃縮度はすごいですね。
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私の場合、ホームステイ先が郊外だったため1度しか都市部に行けていないので何ともいえませんが、どこであれ、建物と建物のあいだの距離が基本的に広く空いており、日本のように密集していません。なのでまとまりとして実感しにくいです。街を離れれば山や海、森があって都市部に入っても木がとても多いです。記憶が正しければ、車社会でした。
ちなみに、人々や子供たちは基本シャイでおとなしく、ウォンバットは野犬の臭いがして重いです。
坂田さん、秋織さん、ありがとうございます(笑)
とはいえ、竹下さんのふたつの指摘、すなわち、日本の都市は拡大したムラであること、そして、都市の基盤にある自然環境の拘束性という観点は、日本文化論としても、都市論としてもきわめて重要だと私も思います。
ひとつは、西洋の多くの都市と日本の都市の違いは、「都市」の有無ではなく、脳内リアリティとしての「都市性」のあらわれの強弱の差であると読み変えると明瞭になります。すなわち、日本の場合、ある種の人間の表現としての「都市性」が弱く、その分、より動物的、哺乳類的な「ムラ性」が露出しやすいことです。これは何を意味するのか?
狩猟採集時代のヒトのグループは明確な指導者をもたなかったとされています。意思決定や指揮系統を人工的に整える必要がなかったのでしょう。ヒトの社会集団の規模や混淆性が、群れを越え、ムラを越えてはじめて、スタティックな階層性、すなわち、個の統治とその技術と教養の継承が要請されて文明が維持されます。したがって、日本の都市に脳内リアリティとしての「都市性」が弱いことは、「統治」の弱さを、ひいては「文明性」の弱さを意味します。嫌な言い方をすれば、日本の都市の多くは庶民根性が相対的に強いのです。
日本文化における文明性は、最低でも、神道の問題、大乗仏教の問題、蘇我氏による仏教輸入の問題、そして、藤原氏による歴史隠蔽と『日本書紀』の問題、すなわち、天皇制の起源と存続の問題を扱わざるをえないため厄介です。しかし、竹下さんの問題意識にひきつけて考えれば、日本は伝統的に、トップダウンの「統治」ではなく、ボトムアップの「統治」があった可能性もあります。というのも、西欧などの麦作よりも、日本などの伝統的な稲作の方が綿密なチーム連携がもとめられるからです。これは、自然環境の変動性の高い日本固有の気候が織りなす文化現象でしょう。
これらの意味において、日本の都市は基本的に自然に規定されているという竹下さんのご指摘はまったくただしいと思います。しかし、事態は逆で、人間の「まち」は基本的に自然環境に規定されているが、文明史上、西欧圏は自然環境の変動性が比較的低く、また、トップダウンの「統治」=「文明性」を強力に発展させてきたために、西欧圏の「まち」は「都市性」を強く高める好条件にあったのではないでしょうか。
そのうえで、都市論を、自然環境の拘束と文明人の統治の上下両方の観点から再定義し、個別の文化圏の都市批評はもちろん、サステナビリティとモビリティを条件とする未来の都市設計に挑戦する必要があると私は考えるのですが、竹下さん、いかがでしょう?
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羊谷さんの分析、とてもおもしろいと思います。日本人の統治性の低さは、都市の問題と表裏一体であるという指摘はかなり的を射ている指摘であるように感じられます。
日本人の統治性、という問題を考えますと、コメ作りの問題も思い起こされますね。日本人は国全体でコメ作りをしてきました。そして、天皇制も新嘗祭などコメ作りととても関連が深いのです。そのような点を鑑みると、日本人はコメ作りという極めて同質性の高い産業構造を持っていて、今日もムラ的な制度を維持するというのは至極当たり前な結末になるでしょうね。
坂田真奈美のロンドン写真