アメリカの名門大学とは、その教育水準、学習環境、キャンパスライフの実際とはどんなものでしょうか?
昨年、アメリカ合衆国内で7番めに歴史あるマイアミ大学に留学した筆者・古山冬馬(現在、スタートアップ準備中)の体験をもとに、①アメリカの大学教育の優秀さ、②それを可能にするアメリカ社会の特徴、番外編として、③アメリカ流・青春キャンパスライフの3部構成で連載執筆します。とりわけ、筆者の在籍していたリチャード・T・ファーマー経営大学院の学部教育は、ビジネスウィーク誌の大学ランキングでは、全米の公立大学中7位ときわめて評価の高い教育態勢でした。
初回の本記事では、アメリカの大学教育の何がどう優れているか、日本の場合と比較しながら具体的に解説します。今、海外留学や転学に悩まれている方、日本の教育レベルの拙劣さに身を腐らせている方は、是非、参考に!
量と質を兼ね備えた本物の高等教育
まず、学習カリキュラムの基本的な流れを説明します。
1年次は、専攻未定なため、自分の興味がある分野の授業をさまざまに取り、2年次以降に今後の土台となる専攻学問の基礎理解を深めます。高度な授業は3年次から始まり、最新の研究論文を読み込んでのディスカッションやグループワークを通して専門性を高め、4年次では引き続き議論ベースの授業や集大成となるプロジェクト系の授業などを履修し、晴れて卒業となります。
日本の製造工場めいた画一的な大学教育制度や慣習との大きな違いは、卒業論文の提出が一般的ではないこと、GPAが低い場合は単位取得できていても卒業できない場合があること、就職活動は卒業後に行う場合も珍しくないこと、単位取得さえ終われば3年次であろうと卒業可能なことです。
では、あらためて、アメリカの大学教育の何が優れているかというと、毎日の学習量の膨大さと質の高い授業、これだけです。何を当たり前のことかと思われるでしょうが、問題は、日本の大学教育ではこの当たり前すらできていないことにあります。つまり、アメリカの場合、自由度の高い教育システムの柔軟さを基盤に、多量でかつ豊潤な授業と学習が日々為されているのです。
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アメリカの大学生の読書量を日本と比較しながら観てみましょう。
マイアミ大学では1つの授業が週2、3回あり、毎授業前に指定の教科書や資料を平均2、30ページ程読まなくてはなりません。授業は学期中に25~30回あるので、単純計算でも500~900ページは読みます。1学期に取る授業は、最低単位数しかとっていなかった筆者で4授業ですので、全体で見ると2000~3600ページ程読んだことになります。一般的には5、6授業ですから文献の読書量はさらに増えます。
一方、筆者の通った日本の立教大学では教科書を読ませられた記憶はないに等しいです。友人の話を聞く限り、他大学も似たようなものでしょう。その上、教科書があったとしても、教授がその要約を講義と称して伝えてくれるのでそもそも読む必要がありません。
授業時間についても、日本の大学では1学期間の総授業時間は1授業につき19時間でしたが、マイアミ大学ではその2倍以上の42時間程です。くわえて、前述したとおり、文献を読むのは授業前ですから、総合的な学習時間自体は数倍にもなるでしょう。その結果、アメリカの学生は基礎的な学問知識がしっかりしています。こうした基礎学習の重要性をアメリカの大学は強く理解しており、それぞれの授業の学習内容が関連して積み上がっていくように授業毎の連携や総合的視点に立ったカリキュラム作りがなされています。
基礎的な学習のみならず、3年次以降の高度な専門学習も非常に質の高いものとなっています。筆者がアメリカの大学に来れて一番良かったと思うのは、教授推薦のたくさんの興味深い研究論文を読めたことです。毎時限に課題図書として課される最新の研究論文や今の分野の発展を担った重要論文などが本当に面白いのです。筆者の実体験でいえば、リーダーシップ研究の論文に感銘を受け、これまでの自分の振舞いや価値判断の軸を刷新することがありました。アメリカの大学教授にはおもしろい情報を積極的にシェアしようとする意識が強くあります。
また、ひとりで文献資料を読んで得られる以上の学習の機会も、授業内ディスカッションや教授自身の具体的な経験を基にした智恵など非常に充実しています。日本の大学の授業は教科書の要約を伝えるだけのものが多く、正直言って、教科書を読めばわざわざ出席する必要がないと感じることも少なくありません。そうした日本の大学教育と比べると、アメリカの大学教育は文献資料をひとりで読むことを超えた学習という点を良く徹底しています。教授自身にとっても、文献資料を事前に読ませて授業時にディスカッションを行う手法は、教科書を要約しただけのレジュメやパワーポイントの作成などの不必要な作業を省き、自身の研究に専念できるというメリットもあるでしょう。
自由度の高いメジャー・マイナー制度
アメリカの大学教育の特徴として柔軟なメジャーシステム(専攻制度)が挙げられます。
日本の大学では、経営学部専攻で入学すれば、当然、卒業時の取得学位も経営学の学士号になりますが、アメリカの大学にはマイナー(副専攻)やダブルメジャー(複数専攻)の制度があります。マイナーとは、専攻以外の分野で一定の単位数を取得した際に認められるもので、ダブルメジャーは読んで字の如くふたつの専攻を持つことです。具体的には、マネージメントメジャーのソシオロジーマイナー(社会学副専攻)や、マーケティングとグラフィックデザインのダブルメジャーといった感じです。
また、専攻を変えることも容易です。そもそも日本と比較して専攻がかなり細分化されており、ビジネススクールのなかでもマーケティングメジャー、ファイナンスメジャー、アカウンティングメジャー、マネジメント&リーダーシップメジャー、スポーツマネジメントメジャーと細かく整備されています。比較対象としては、立教大学の経営学部は経営学専攻と国際経営学専攻の2つしかないことを挙げれば十分でしょう。この違いは、アメリカの就職活動が単に企業に応募するのではなく、企業の人事や物流など部門ごとに応募していくことと密接に関わっています。大学のみならず、アメリカ社会全体が高度な専門性を重視しているのです。
こうした柔軟なメジャー・マイナー制度の恩恵は、横断的な分析能力、学生同士の総合的議論の促進といった形で表れます。たとえば、筆者が受講したブランドマーケティングの授業で、大学のプログラムをブランディングするというプロジェクトがあったのですが、この際、チームにマーケティングとグラフィックデザインのダブルメジャーの学生がいたお陰でポスターやWEBデザインのサンプル作成などかなり具体的な提案が可能になりました。マイナー、ダブルメジャー制度が促進する学生の横断性、総合性は、多様性、マルチタスク、マルチスキル、ネットワークなどの言葉で語られる現代社会の要求にかなっているのです。
余談ですが、筆者が個人的にその一番の強みを実感したのはビジネスでの授業風景でした。大抵の授業では初回に自分のユニーク・ポイントを聞かれます。筆者はこの質問に「経営学のみならず社会学や哲学などの幅広い学際的な分析能力」と答えることにしていたのですが、実際には、他の学生が「自分はマーケティングメジャー、グラフィックデザインマイナーです」や「マネジメントとコンピュータサイエンスのダブルメジャーです」といった自己紹介を当然のようにするのです。基礎教養があり、その上での専門的知識や技能があり、横断性さえもある。日本の大学教育では敵わない現実が米国の学生の質に端的に表れています。
学生の「意識の高さ」
昨今、「意識高い系」というスラングが流行していますが、アメリカの大学にも「意識高い系」の学生は存在します。日本との違いをあえて挙げると、アメリカのほぼ全ての大学生が「意識高い系」だということです。
注目すべきは、GPAの重要性です。
GPAとは Grade Point Average の頭文字で、学生が受講した科目の成績から算出された成績評価値です。以前、友人が企業のインターン面接に行った際、GPAが3. 2だったことを指摘され「君、ちゃんと学校行っている?」と衝撃的な言葉をぶつけられたそうです。というのも、GPA3. 2とは、取得単位平均がB以上(A. B. C. D. F(不合格)の5段階で考えた場合)であり、日本の大学であれば3. 2のGPAは比較的優秀な学生だからです。そもそも、日本の企業はGPAを見ないことや学生自身がその存在すら知らないことから分かるように、極端な話、卒業証書さえあれば事足りるのです。一方、アメリカの企業は必ず学生のGPAを確認しますし、卒業にもGPAのスコアが深く関係します。つまり、アメリカの学生は否応なく勉学に励まざるをえない状況にあるのです。
もちろん、学生の意識の高さには学費の高さも関係しています。アメリカの大学は学費が非常に高いことで有名ですが、学生の多くは自分でローンを組んだり給与や貸与の奨学金を取得したりして大学に通います。もちろん、4年間で1000万円を超えるような高額の学費に賛否両論はありますが、現実問題として、高い費用を勉強にかけている分、知識や技能をしっかり得ようとする意識が学生にきわめて強いことも事実なのです。
研究環境・設備の充実度の高さ
アメリカの研究環境については、まず、大学図書館などの蔵書資料数の多さに眼を見張ります。たとえば、筆者がブランド研究のために商品パッケージの資料を日本の大学図書館で検索してみたところ3冊しかなかったのに対し、マイアミ大学の図書館では3000冊以上も所蔵されていました。大学の蔵書資料数が多いことは、全ての学問に先行研究が不可欠であることを鑑みても大変重要です。英語が国際共通語となった今、蔵書資料などの知識リソースの強みにおいて英語圏の大学は強大なアドバンテージを有しています。
また、研究設備の充実もアメリカの大きな強みです。とりわけ、専門的な設備や機材を不可避的に必要とする理系分野では、最新の設備の有無が研究可能かいなかに直結します。詳細は次回に譲りますが、大学が、社会的に重要な研究・人材のリソースとして捉えられているアメリカでは、企業やその他研究機関からグラントという形で提供される研究費が非常に多く、その資金力の強さが設備面に顕著に表れています。最先端の研究設備が整っていることは、トップレベルの研究者や学生を世界中から集めることを可能にし、優れた研究が新たに生まれ続ける好循環を形成しています。
大学教育がパワープレイで闘えない日本社会の奇妙さ
結局、アメリカの大学教育の何が優れているか、学習量と質、柔軟なメジャー・マイナー制度、学生の意識の高さ、研究環境の充実といった側面から検証してみて分かるのは、アメリカの大学教育は気を衒わずに王道のパワープレイを実直に行っていることです。それは、アメリカの経済、技術、学術などに与える強い影響力が、多心的にかつグローバルに経済が動く現代社会でも突出しているという事実もありますが、その社会的要因を差し引いても、アメリカに対し、日本の大学教育は当たり前のことがあまりにできていない奇妙さが浮き彫りになります。
大学教育で学べる内容が、教科書を読むだけで身に付く程度のものであれば企業がGPAを気にする必要はありません。ろくに勉強しない学生に歩調をあわせ、大学教授は初歩的な内容しか教えていないのではないですか?
先日、日本の文部科学省が発表したL型大学構想における国立大学の文系学部の廃止案などを受け、各界の識者や一般のひとたちが大学の職業訓練校化を高等教育の否定だと嘆いているのを見かけました。しかし、アメリカと比較すると、日本の大学教育がそもそも高等教育と呼べるのか甚だ疑問です。何のために大学があるかという根本的な思考が欠落しているのでしょう。こうした日本の内部からは観えない問題を認識するために、アメリカの高水準な大学教育の実際を多くのひとが具体的に知ることが必要だと筆者は考えています。
日本の大学は楽だが、その分自分でやりたい勉強をやる時間を大量に確保できる。
私は独学が大好きだから、厳しい講義など余計なお世話なのである。
それに、大学生ともなれば、学校側にあれやれこれやれと言われてやるよりも、自主的に勉強するのが良いのではないか。
日本には、その環境が整っている。