e-sports はスポーツかというゲーマー界隈ではきわめて評判の悪い議論がある。
概ね、デジタルゲームを e-sports としてもちあげたい昨今の流行りに対し、マスメディアが椅子に座っているだけのゲームはスポーツじゃないと冷や水を浴びせる一方、ゲーマーたちは「ゲームはあくまでゲームだから……」と冷めた視点で両者に距離をとる少し奇妙な構図だ。
グーグル検索で上位にくるこの記事はゲーマーたちのリアルな視点を伝えてくれる――結論はみんなちがってみんないいという例の消極的な価値相対主義で、安易な比較は差別を生むからやめようというものだが。
差別主義者を地でいく批評家の僕だが(笑)、この記事を叩き台にして「e-sports はスポーツか」問題を少し真剣に考えてみよう。
まず、世論が前提とし、この記事を書いた謎部えむという方が猛反発する「ゲーム<スポーツ」という優劣関係がある。
僕がこの手の議論で残念に思うのは、原理的な視点、つまりはそもそも論がないことだ。
簡潔にいおう。
ゲーム、この場合はデジタルゲームは指すが、ゲームは遊びであると同時にスポーツもまたその根本にあるのは遊びだ。
だから、謎部えむが奇妙なまでに忌避するゲームとスポーツの比較は正当性をもって成立する――プロフェッショナルな競技シーンをもつどんなスポーツ種目もそれ以前に遊びの領域があり、大多数のプロスポーツ選手がまず楽しむことを大事にするよう伝えていることがその証左だ。
したがって「ゲーム<スポーツ」という図式はたんなる社会的イメージの優劣関係に過ぎず、これを振りかざす側も間に受ける側も僕としては残念のひとことに尽きる。
アジテーションが目的なら社会的イメージを弄することに意味はあるだろうが、事実の探究として物事を考える場合にはつねに社会的イメージをカッコに入れる必要がある。
そうでないなら、新元号の令和に対し、令和の「令」は命令を想い起させて冷たい感じがするという見当外れな批判と何も変わらなくなるだろう。
e-sports ――デジタルゲームのプロフェッショナルな競技シーンは世間がいうスポーツのそれと何が違うだろう?
肉体を使うかどうかがよく世間で挙げられるが、これは結構な見当違いだ。
特に、格闘ゲームや、FPSやTPSといった(操作者の視点が1人称か3人称かの違い)シューティングゲーム、RTSと呼ばれるリアルタイムの戦略ゲームでは、手の繊細な操作性もさることながら秒単位の思考力とパフォーマンスの高さが要求される。
プロフェッショナルなシューティングゲームでは20歳を越えたら(エイムの観点では)劣化といわれることからも、要求される身体的な反応能力の高さが伺えるはずだ。
したがって、フィジカル・スポーツの観点から e-sports はスポーツではないという考えは事実に反する。
e-sports 化しているデジタルゲームの多くは、ハースストーンやMTGアリーナのようなカードゲームを除き、程度の差こそあれ、フィジカル・スポーツとチェスや囲碁のようなマインド・スポーツとの合いの子とするのが最も穏当な見方だろう。
公平な競技性を保つかぎり、ゲームもまたデジタルなスポーツだといえる。
余談だが、ゲーマー界隈で競技の公平性というとまず悪名高い Pay to Win 方式の課金システムが想起される――要するに戦闘を有利にする課金アイテムの販売だ。
その是非をこの記事では考えないが、フィジカル・スポーツの多くは結果的にこの Pay to Win 方式を採用していることは留意されても良い。
たとえば野球では、バットやグローブという戦闘に直接関わる課金アイテムを選手個人や学校ないし団体が用意することで試合が成立する――当然、課金額が高ければ高いほどより強力な武器をそろえられるのはいうまでもない。
また、試合には直接関わらないものの、練習場の質も大事だ。
資金力が高い団体ならナイター設備や雨天練習場もあり当然のようにキレイに整備された専用グラウンドを使えるが、そうでないなら、地面がボコボコでまともな守備練習ができなかったり狭すぎて十分な打撃練習や実践練習ができなかったりが日常茶飯事だろう。
毎週の遠征費もバカにならない。
高校野球はスポーツじゃないという賢明なひとは少ないだろうが、公立校と私立校で資金力に差が出やすい高校野球ははたして公平な競技性を保てているだろうか?
Pay to Win 方式を採用した炎上ゲームタイトルとの違いはそのお金のゆくえだけだ。