はじめまして、美術批評家の西山雪包です。
このたび『西山雪包の芸術鑑賞テスト A or B』というタイトルで、美術鑑賞を扱ったコンテンツをEngineerismで執筆させていただくことになりました。
このシリーズでは、美術作品に興味があるがどのように鑑賞していいかわからない・芸術とそうでないものを判別できるようになりたいというニーズを抱えている方を主な対象に、二つの美術作品を比較する事で、作品鑑賞のポイントを伝えて行きます。
なおこのコンテンツでは、美術に関する知識を増やす事を目的とせず、美術作品を鑑賞するための原理的な方法を伝えていきます。
これらの記事が、皆さんが世評(「あの有名な○○」「○○なのだから良い物なのだろう」)を認識しながらも、それを超えて自身の責任で作品の善し悪しを判断する力を養う手助けになれば、と思います。
もちろん初学者だけでなく、既に美術に親しまれている方にとっても刺激的で、議論を喚起するようなものにしていく事ができればと思います。
1.鑑賞能力とは何か
はじめに、そもそも「鑑賞能力」とは何か、またなぜ鑑賞能力が必要なのか、という点について触れておきます。
一般的に、美術における鑑賞とは「作品に付随する周辺情報の知識(作者、制作年代、技法、等)を蓄え、それらを作品に対して対応させていく事」であり、鑑賞能力とは「作品を見て音声ガイドの様な解説をすることができる能力」であると思われていますが、私はこのような認識は誤りであると考えます。
美術に限らず、本来の鑑賞能力とは、自らが価値体系(知識)を持っていない未知のものに出会った際に価値判断を行う能力である、というのが私の立場です。
この事は、世に出てから時間が経っている作品を相手にしている限りは問題になりにくいですが(知識を蓄え先行する評価をエミュレートすることで社会的な外面は取り繕う事が出来るので)、企業の新製品や新人アーティストのデビュー作など、評価の定まらない新しい作品と出会った際に実際上の問題として立ち現れます。
また我々が生涯において蓄える事の出来る知識に限界がある以上、このような意味での「鑑賞能力」を養っていく事は、自身の人生を充実させる上で大きな助けになるのではないでしょうか。
3.「何がつくられているか」ではなく「どうつくられているか」に注目する
初回の今回は、そのような意味での「鑑賞」を行うための最も基本的な態度の一つを紹介します。
それは、作品を鑑賞する際に「なにが作られているか」ではなく「どう作られているか」に注目することです。
このことを、(「何が描かれているか」に差異のない)織田信長を題材にした2つの肖像画を比較することで見てみましょう。
ひとつは狩野元秀による、教科書でおなじみの織田信長像、もう一方は、狩野永徳により描かれた織田信長像です。
結論から言うと、私自身は永徳版の方が「人物」を描いた造形作品としては優れたクリエイション(=芸術)である、と判断します。
こちらの作品は、まず人物を一面的に表現するのではなくネガティブな部分も含めた複雑な総体として捉えている点を、一人の人間を描いた「肖像画」として評価します。
同時に、色彩の使い方や空間の表現を用いて造形的な自律性を強固に確保しているため、この人物が誰か知らなくても(描かれた内容がわからなくても)「造形作品」として視覚的に楽しむ事の出来る構造を持っています。
この2つのアプローチを両立している点を高く評価します。
一方、元秀版は、信長の姿形を他者に伝えるための図解としては優れていますが、作品を直接的な造形で構成しているため、付随する周辺情報(重要な武将「織田信長」の肖像画であるという事)が失われた際には魅力が半減する、造形作品としては不十分なものである、というのが私の評価です。
皆さんはいかがでしょうか。
3.「芸術」を成立させる基本的な性格
「よい作品とは、長期的に鑑賞出来る作品である」とすると、それを実現するためにはモチーフや技法に依存せず、作品を成立させる構造そのもの(視覚芸術の場合は造形性)に意識的になる必要があります。
そうすることで、時代や生育環境といった前提条件を共有しない、より遠くの鑑賞者へ作品を届ける事が可能になります。
このように作品を構成するあらゆる要素を動員して、ある種の永遠を志向するのがエンターテイメントとは異なる「芸術」の基本的な性格です。
ひとまず、第一回の内容は以上になります。
なお以下に、私が2つの作品を上記のように判断した根拠の詳細を記載しておきます。
お時間ある方はご覧くださいませ。
まず全体の印象を比べると、元秀による信長像はメリハリの効いた構成で、鑑賞者に信長の姿形を明快に伝えています。
一方、永徳版は全体に地味な印象で、イマイチ焦点がぼやけているように見えます。(感覚的には、元秀が手前にせり出して、永徳は奥に引き込まれる印象を受けます。)
一見したところ「信長の人となりを明快に他者に伝える」肖像画の機能としては、元秀版が優れているように思えますが、注意深く見ていくと、元秀版は身体の各部分の関係性と量感を十分に表現できていません。
上半身と下半身、左腕の位置関係が十分に表現されておらず、「人物が座っている」重量感を畳と人物の間に感じることができません。
全体として細部の整合性が一貫せず「座った人物を描いた絵」としては不十分に思われます。
一方、永徳版は「畳に座った人物」としての整合性はとれていて、人物としての量感を感じることが出来ます。
描かれた人体にきちんと上半身と下半身が繋がった背骨を意識することが出来ます。
また両者の意識の差が特にわかりやすいのは、服のしわの描き方です。
元秀版は、服のしわを経験(あるいは先行する作品)によって形成されたクリシェによって形式的に描いています。
一方、永徳版は実際に人が着た際の衣服に生じる効果を想定して、重力に引っ張られる衣服を適切に描写しています。
顔の描写密度も両者は対象的です。
元秀版は人物の特徴を戯画化し似顔絵として描いていますが、永徳版は人物そのものの固有の表情を表現しようとしています。
私自身はこれらの違いから、肖像画が持つ「信長の人となりを明解に他者に伝える」機能が必要とされている事は理解できますが、「人物を平面に描いた絵画」としては永徳版にその誠実さを認め高く評価します。
なお作品全体の組み立て方としても両者は対照的で、元秀版は背景とコンテンツの序列が明確な一方、永徳版は背景にも情報を持たせ、コンテンツとの緊張関係を形成します。
色彩の選択においてもその方針は一貫しており、元秀版が緑と赤の補色を効果的に使って視線を頭部に導くのに対し、永徳版は大きな面積を占める茶色の補色から両隣にズラした緑と青で構成することで画面全体に視線を拡散させます。
永徳版は、鑑賞者の生理的な反応に訴えるのではなく、各要素を理知的に成立させています。