私たちは、日本社会の「世間」を生きています。世間とは、権威と遺産、模倣と無目的なコミュニケーションからなる「空気」のような盲目の場所です。それゆえ、世間がたとえ優れた集団の知を生みだす場合があるとしても、模倣と盲目を特徴とする世間に自分の身や知性をゆだねきる理由にはなりえないのです。
社会常識や学問の「概念」は各人によって鋳直され、絶えず、新しく作られ続けなければなりません。それは、私たちが先人の過去ではなく現在を生きているからであり、多くの場合、他人の作った「概念」という認識の道具がそのままほかの個の目的や欲望や問題に最高のパフォーマンスを発揮するわけではないからです。ひとの思想は概念工学として営まれることで権威による骨董化をまぬがれて機能します。私たちの「DIY精神」による概念工作こそが、文明内部の環境変化へ対応し、自分自身のために認識し判断する、ライフハック哲学の基礎実践なのです。
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実際にやってみましょう。
たとえば「個人」という概念は、社会、公、世間に対するもの、包括されるものというニュアンスを持ち、決して集合を越えるものではありません。しかし、人間の個は「個人」のフレームに留まるものでしょうか?
個がみずからを配慮すること、また、各人が自分にとって最も重要だと思われる目的を追求する自由を私は重んじます。そこから見て、社会集団の成員や要素のニュアンスがまとわりつく「個人」は私の模索の概念には不十分です。個はかならずしも社会や契約の観点から汲み尽くされるものではないからです。他に「自我」「実存」といった語彙もありますが、いずれもまた不適当です。そこでは動物としてのヒトがたびたび見過ごされると同時に、魂や霊性と形容せざるをえない何かが放っておかれます。
そもそも私は「本質」や「真理」を強く問う者ではなく、その点で、古代ギリシアやローマ、ヨーロッパの地域で培われた(そして日本に輸入された)いわゆる「哲学」の知的伝統から少し外れたところにいます。そしてそれだけが物を語り、思考するための言葉であるという立場をとりません。「哲学」は概念をよく産み、整備、洗練させてきましたが、その外側、別の原理原則によるものも当然あり、それらから学び、問題によっては有効活用できます。
仏教に目を転じてみましょう。たとえば、仏教最古の経典といわれる『スッタニパータ』では、犀の角のようにただ独り歩めという有名な文句が出てきます。
釈迦の言う「独り」とは、
- 独立自尊をめざす
- 相争う哲学的見解を超え、われは智慧を生じた、もはや他のものに指導される要がないと知る
- 最高の目的を達成するために努力策励する
- 良い同伴者を得たら彼と歩み、得られなければ独りで歩む
といった性質を持っており、そこから私は顧みて、自分の求める個の概念は、
- 他人や社会と共有(≠共感)できないものを持ちうる
- 自分の問題や欲望を持ちうる
- 自分の目的や必要のために思考、判断、行動しうる
- 協同(共闘)することがありうる
すると、釈迦の言う「独り」の理念と先ほどの自覚から概念を設定できそうだと気付き、筆者は〈ひとり〉という概念を作りあげるに至ります。
以上が概念工作の実践例ですが、これにはどのようなメリットがあるのでしょうか?
まずその過程で、自分の求めるものや立場を自覚ないし再確認できます。つまり、往々にして忘れがちな目的や必要に意識の焦点を当てもどすことができ、その繰り返しが、より忘れにくく、よりベターを追求する意思を持つことにつながります。どのようなひとであれ、人間の内面は習慣に拘束されているのです。
また、認識や模索はツールに左右されます。概念はツールのひとつであり、最適化されたツールはパフォーマンスの向上に結びつきます。概念工作は追求や対象化をよりスマートにしてくれることでしょう。
そして、自分を周りから引き剥がし、素朴な集団同調に自身の内面や判断をゆだねないためには理念が有用です。浄土教の文献、たとえば『一言芳談』などを調べると「浄土」「後世」「南無阿弥陀仏」といった概念が往生することへの配慮、すなわち自分への配慮を促していることに気づきます。概念工作はこういったツールを作ることができるため、自分自身をみずからの目的や必要に対応させていくのに役立ちます。もちろん、途中で得た経験や学習に応じて洗練、変容させていくことも可能です。
私の考えるライフハックとは、幸福度、生産性、創造性を向上させうるあらゆるアイデア、テクニックであり、便利な小技や仕事術のみを指すものではありません。それは、世間と心的な距離をとり、ただ〈ひとり〉歩む人の杖やバイクでありえるのです。〈ひとり〉の行程は苦しみを生む事物と個を調停する知恵と同時に、世間で培われるものとは別様の、謂わばオルタナティブな精神を形成するでしょう。その先に、現実的な「解脱」の可能性があります。