日本の大学教育はなぜ腐敗し、抜本的改革が必要なのか?

現在、日本政府の大学改革の動きが一部世論のヒステリックな視線を集める状態が続いています。数日前も、Global型からLocal型への転換を検討する文科省の有識者会議の資料が炎上気味に話題になりました。今年8月からは、国立大学における人文社会系学科の解体の噂も継続的に飛び交っています。

参照記事

もちろん、研究機関、教育機関として、大学の学問の自由を擁護することはほとんど全的に正しいことです。私自身も、日本政府による民意を無視した大学改革には徹頭徹尾反対します。

しかし、正しさとは、人間の知性の観点から原理的にいえば、事実や現実とは無関係に構成される価値秩序にほかなりません。学問(に限らずさまざまな物事)の自由を主張し、擁護し、許容することは、自由という名のもとで現状を放置する無責任さとは原理が違います。チンパンジーも、公正さとしての正しさであれば、2者関係はもちろん、損ないのあるところに第3者が介入し、自身と仲間の公正さを守るために食事を我慢さえすることが観察と実験からわかっています。

社会的に正しいとされる振舞いの無自覚な真似ごとのために、研究機関、教育機関としての大学の現場検証を未然に封じてはなりません。

文明人として、近代以後を生きる人間として最低限必要なのは、価値秩序を否定する懐疑のまなざしからきちんと物事を検証することです。私の知るかぎり、日本政府の大学改革の動きにヒステリックな反応を示している大多数のひとたちの意見にはこの知性が働いていません。学問の自由という絶対的価値を建前にし、盲目的な現状維持に拘泥する態度はたんなる知的怠惰にすぎないでしょう。

単純に考えて、文理の別を問わず、1册の良書を借りて読めば済むような貧しい知識量の授業にお金を払い、90分×12、3回分の時間的コストをかけるのは効率が良いでしょうか? 同僚がどのような授業実践をし、試行錯誤を重ねているか(あるいは、放棄しているかも知らないで済む仕組みのもとで教員の授業技術は向上するでしょうか?

現実問題、何割程度の学生が必要とされる技術と教養を実際に修得し卒業していくのでしょう? 大学に雇われて教壇に立つひとも、授業者である以前にほんとうに優れた知性と教養と専門技術を持つ研究者なのでしょうか? そして、有名上位校以下の大学では、たとえば、教員公募で学生の送り迎えのための大型免許が必須とされ、日本語の「てにをは」の使いかたから添削し教えないといけない厳しい現実があるのですが、初等、中等教育のやり直しと高等教育の折りあいをどう付けたら良いのでしょう?

今日における学問の自由という正しさは、お経のように唱えるのではなく、現実を直視し、具体的な問題解決をとおして僅かながらでも実現させる無謀なミッション以外のものではありません。

 

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大学の創作学科って、実際には何を学んでいるのでしょう?今回は、立教大学文芸思想専修の創作系の学生と思想系の学生、そして、卒業生である私の3人で議論しました。前篇は、明確なディシプリンのない新設学科で創作術や思考術をきちんと教えられる教員はどれほどいるのか?という観点から、実際の学生の質や雰囲気についてまで語っています。

後篇は、前篇で語られた批判点をもとにあるべき創作学科のかたちを設計していきます。もちろんこれは、大学だけでなく、私塾のようなものでこそ実現可能なアイデアです。



以下の対話記録では、 文理の別を問わず、日本の大学教育がなぜ、どのように腐敗し、抜本的改革を必要とせざるをえないのか議論しています。ひとことでいえば、日本の大学及びアカデミズムが、日本社会全体が、旧態依然とし、現代はおろか、近代以前の呪術性や集団性を残存させていることによります。理想をいえば、基礎学力を今日的に再定義し、知識量からスキル修得の視点転換を果たし、新しい教育スタイルを視野にいれ、キャンパスや校舎そのものを再設計しなくてはなりません。

もっとも、大学の失墜と終焉はすでに世界的に大きな問題となっています。詳述は避けますが、ひとことでいうと、学問の自由が大学(キャンパス・校舎)内にだけあるというのが古い思いこみに過ぎません。学問や教養は原理的にはもっと自由にできるはずです。そのためにはまず、人類の発展史を原理的観点から把握することが必須です。

パーソナル・コンピュータの思想的完成者アラン・ケイは、1986年の教育関係者向けの講演「教育技術における学習と教育の対立」で実に時宜に適ったことを指摘しています。

私がもう少し偏執的な人間なら、現代の教育界のエスタブリッシュメントたちは、読書というものをわざと退屈でうっとおしいものに変え、学習者の書物に対する関心を根絶やしにすることすることによって、自分たちの仕事の安泰をはかっている、と考えているところでしょう。

現代の学校とはどのようなものでしょうか? 30人の人間が他の人間が話すのをきく部屋―まるで中世そのままじゃないですか!

 

結局、大学に自由がなく、健全な教養も、教育も、研究活動もないならば、学習するものも追求するものもひとしく大学の外に活路を切り拓けば良いのです!

 

【羊谷知嘉の対話記録】

人類史の教養修得ツールを作成しているプロジェクトチームで、日本の大学教育がなぜ退屈でかつ非効率的なことを延々繰りかえしているのかについて議論しています。前篇では、最近話題の大学改革をめぐる議論の不毛さと大学教育の腐りきった現状を確認し、教育スタイルと基礎学力の再定義、アーキテクチャー的視点からキャンパスを再設計する必要性を論じあっています。キーワードは、知識量からスキルへの視点転換です。

後篇では、グーグル検索が私たちの思考にもたらした変容と、アーキテクチャー思想の高度さと歴史的位置付けや、日本のメディア論、人間の視覚中心主義的思考の根深さについて論じています。

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日本の大学教育はなぜ腐敗し、抜本的改革が必要なのか?
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羊谷知嘉の対話記録:学問の自由をお経のように唱える前に、日本の大学を、教育機関、研究機関として徹底的に検証することが必要です。今日においては最早、学問の自由という正しさは、現実を直視し、具体的な問題解決をとおして僅かながらでも実現させる無謀なミッション以外のものではありません。
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羊谷知嘉

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